2017年1月23日月曜日

北斎晩年最大の傑作、須佐之男命厄神退治之図 No.1

YouTubeチャンネルを開設しました。新保博彦のチャンネルです。以下の内容を含む「北斎の須佐之男命厄神退治之図と晩年の大作群」を作成しました。(2023.5.22)

晩年の北斎はやはりすごい。その最大の傑作のひとつ「須佐之男命厄神退治之図」(1845)が現代に甦った。
凸版印刷によれば、同社は、「墨田区が進める、葛飾北斎晩年最大級の傑作といわれる大絵馬「須佐之男命厄神退治之図 (すさのおのみこと やくじん たいじのず)」の復元プロジェクトに参画。関東大震災で焼失した「須佐之男命厄神退治之図」の残された白黒写真から、凸版印刷の最先端デジタル技術を活用し、撮影された当時の彩色された絵馬を原寸大で推定復元しました。」

この復元については、NHKの「ロスト北斎」で詳しく紹介された。
左がその復元画像である。現在、すみだ北斎美術館に掲げられている。今のところ手元にはこれ以上の適当なカラーのデータが無いのでこれを用い、後日より鮮明な画像に差し替えたい。(上の画像は、すみだ北斎美術館のtwitterから転載した)牛島神社によれば、元の絵は、全体に銀箔が使用されたとされているが、復元された絵馬では金箔が使われている。

とりあえず、元の白黒の写真版もあわせながら細部を見てみよう。白黒の絵馬は牛島神社が所有しているものである。




左の中央二人目、朱色と思われる服をまとい、腕には疱瘡の痕が見える疱瘡神(疱瘡(天然痘)を疱瘡をもたらすと信じられた疫神)が見える。朱は魔除けの効果があると思われていた。画面全体の中央には、紫の衣をまとった梅毒の厄神とそれに寄り添いじっとこちらを見ている人物がいる。右側には風邪をはやらせる疫病神、風邪の神が描かれている。
このように北斎は、人間社会をおそう様々な疫病神、厄病神と、それを退治しようとする真っ白な衣装の須佐之男命を描いたのである。

あらゆるものを描き尽くそうとした北斎ではあるが、この図のような病気の神々から人間社会を救おうするようなモチーフの絵は、おそらく非常に少ないと思われる。それは、次々と天災が起こり社会が不安定になった、当時の社会の出来事の反映であるだろう。また、最晩年に入って北斎の心境が少し変わったのかもしれない。

もうひとつ同じようなモチーフで描かれた、晩年の北斎の作品を掲げておこう。「弘法大師修法図」である。なお、晩年の北斎の作品は、「北斎肉筆画大全 Kindle版」で見られる。

この作品を所有する西新井大師は次のように説明している。「本図は弘法大師がその法力を持って鬼(厄難)を調伏する様子が描かれ、当山の縁起を表しているものと思われる。大正の大震災で焼失した向島牛島神社の「須佐男命厄神退治ノ図」扁額などとともに信仰に支えられた渾身の力作であると言えます。」

これらの作品を通じて、北斎のもうひとつの姿を見ることができ、北斎が描こうとしたものの多彩さとその溢れんばかりの表現力がさらに明らかになってくるように思われる。

「須佐之男命厄神退治之図」と、復活にかけた人々の努力と現代のデジタル技術のすばらしさがもっと詳しく明らかになることを大いに期待したい。

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2017年1月9日月曜日

『吉田博 全木版画集』

2017年の実質的に最初のブログである。以下のようなすばらしい作品を紹介して、一年を始めることができてとてもうれしい。

昨年から今年にかけて各地で、吉田博の生誕140年を記念する展覧会が行われている。その展覧会の記事で、私はこの優れた仕事を残した吉田博を知った。

このブログでは、彼の作品のうち木版画をまとめた吉田博 全木版画集(編集発行:阿部出版、1987年)を紹介したい。この本は、彼の活躍の場が世界であったことを反映して、日本語と英語で書かれている。

千葉市美術館によれば、「吉田博(1876-1950)は福岡県久留米市の生まれ。京都の地で三宅克己の水彩画に感銘を受け、以来本格的な洋画修業を始めました。明治27年に上京して不同舎に入門、小山正太郎のもとで風景写生に励んで技を磨きます。・・・
大正後期からは彫師・摺師と組んだ木版画に軸足を移し、伝統的な技術に洋画の表現を融合したかつてない精巧・清新な造形で国内外の版画愛好家を魅了し続けました。・・・
比較的早くに評価の定まった白馬会系の絵描きたちに比し、長く埋もれてきた感のある博の画業は、今の私たちにどう映るでしょうか。」

画集冒頭で小倉忠夫氏は、吉田の作品について次のように書いている。「思い通りの複雑な色彩表現のために、浮世絵版画の3倍以上の手数を掛けた。また、陰影や立体感を表わすために鼠版を用いた。さらに、他に類のない新工夫として、昭和4年以後の相当数の木版画に線彫りの部分に限って、亜鉛凸版を併用している。まず線描きの下絵を作り、それを写真製版するわけだが、これは浮世絵式の彫線を避けて、吉田の思い通りの線描を生かしたい場合にのみ用いた工夫であった。」(同書P.6-7)

いくつか代表的な作品を紹介したい。まず、私が最も驚嘆した「渓流」(1928, 同書p.95、画面をクリックすると拡大できます)である。

小さな画像ではなかなかわかりにくいが、流れ落ちる水と渦巻く水が、信じられないような精細さで描かれている。水の音が聞こえてきそうである。
滝の直前までに流れる水の深い青さと流れ落ちた水の渦の白さが対照的である。

残念なことに、なぜか画集では半ページで印刷されている。流れや渦がどのように描かれているかを見るには、同書p.84の「中房川奔流」(1926)が参考になる。

次に、「富士拾景」にある「河口湖」(1926, p.62)で、最も日本的な素材である。この時期から、先の「渓流」なども含まれるが、大きな山桜の版木を手に入れ、特大版の制作を始めていると言う。

富士山中腹だけでなく、地上にもかなりの雪が積もっていて、雪の白さが画面全体を覆っている。
薄く赤い空、青くぼんやりとした雲などとともに、地上の木々と湖面に映る木々、山の裾野の雪と土の入り交じった箇所などはとても細かく描かれている。
吉田は早くから海外に出て作品を制作し、展覧会を開いてきた。海外を題材にした作品は非常に多い。右は、そのうちのひとつ「マタホルン山」とその夜版(1925, p.44-45)である。

彼にはこのように同じ版の色違いの作品がある。左は昼、右は夜であるが、この画集の中にも、「タジマハルの庭」とその夜版(p.118)などがある。
昼版ではマッターホルンとともに生きてきた、一面緑に覆われた、教会を中心とした山麓の様子が描かれ、夜版では、家々の明かりがともり、人々静かな生活がうかがわれる。その二つの版の時間差が二つの版それぞれの美しさを際立たせている。

ところで、吉田が描いたのは風景画が多く、風景画で人々が登場する場合は少ないが、次の作品のような例もある。それらとは別に、普通の人々の生活を描いた作品も少なくない。

最後に紹介するのは、「大同門」(1937, p.148)である。同じ海外の作品であるが、当時日本統治下にあった朝鮮の平壌にある大同門である。他に、南朝鮮や満洲も描いた作品がある。

絵では大同門のすぐ前を流れる川で洗濯などをしているようにみえる、普通の人々の日常が暖かいまなざしで描かれている。
当時、朝鮮では日本企業による大規模な電源開発が行われ、近代化が急速に進んでいたが、まだその成果がここには及んでいないのだろうか。

このブログではわずか4点しか紹介できなかったが、『吉田博 全木版画集』には多数のすばらしい作品が掲載されている。ぜひ、購入しじっくり見ていただくことをお薦めしたい画集である。
その際に、p.175-176の「作品刷り行程」も参照されて、吉田の作品群の超絶技巧の一部も見ておかれることもあわせてお薦めしたい

なお、展覧会は以下のように続けられる。
久留米市美術館 2017年2月4日(土)~3月20日(月・祝)
上田市立美術館 2017年4月29日(土)~6月18日(日)
東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館 2017年7月8日(土)~8月27日(日)

(2017.1.25追記)
この版画集の現在販売されているのは第2版(1996.11刊)である。初版が刊行されたのは、1987年5月である。阿部出版によると、両版の違いは、「1996年以降の第2版の36頁には、1987年第1版刊行以降に発見された「帆船 夜」という作品が新たに掲載され」たということである。

追記:これまで私が作成した吉田博についてのブログは以下の通りです。(2021.10.23)

『吉田博 全木版画集 増補新版』刊行される(2021年10月23日)『新版画ー進化系UKIYO-Eの美』に出かけました(2021年9月16日)没後70年 吉田博展(2019-21)、図録の紹介(2020年12月2日)

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