2017年11月23日木曜日

『北斎肉筆画の世界』

『北斎肉筆画の世界』が2017年6月に宝島社から、内藤正人氏の監修で刊行された。北斎の肉筆画をまとめて紹介するというとても興味深い試みで、そのなかには「暁の富士」「鶏竹図」などの本邦初公開の作品が含まれる。
また、本が縦29.6cm、横23.5cmのサイズなのでそれぞれの作品がとても見やすい。2ページの見開きの作品が、折り目を気にせず読めるような綴じ方が採用されていれば、なお良かったと思われる。

まず本邦初公開の一つ目の作品「暁の富士」(1843年, 84歳)である。以下に紹介する作品の中では、最も後期に属する。

詳しく見ると、点描を多用している。同書は、「あっさりした色彩ともあいまって、なかには十九世紀フランスの画家ジョルジュ・スーラを思い出す人もいるはずだ。」(同書14,ページ、以下同じ)と解説している。
北斎は周知のようにいくつも富士を描いているが、その都度新たな表現方法を試みていて、この作品はそのひとつである。

もうひとつの本邦初公開の作品が、「鶏竹図」(1804-18年, 45-59歳)である。「暁の富士」よりもずっと遡る初期の作品である。鶏と言えば若冲だが、北斎の鶏も特にその白と黒の羽根は鮮やかに細密に描かれている。
「清の沈南蘋を祖とする中国花鳥画の新風を独習した北斎の、写生風を基盤とする新鮮な作風を示す」(16)と説明されている。北斎がどのように先駆者から学んだかを示す作品である。


同書第1章は「肉筆画の衝撃」で、そこで上記2作品などが紹介されているが、第2章は「美人画こそが北斎の真髄」として、その代表作の「二美人図」(1801-04年, 42-45歳)などが紹介されている。

「立ち姿と座り姿とを対比し、すらりと伸びた遊女の体躯と奥ゆかしく足元に座る芸者の姿が調和している」(56)
私は2人の着物の柄にも注目したい。濃紺と赤、茶など鮮明な色が多彩に使われているが、描かれている文様がいくつも細かく描き分けられていて見事である。
「本作は、三葉葵の紋のついた表装であることから、徳川将軍家またはその周辺からの特別注文として制作された可能性が指摘されている。」(56)

第3章は「画狂人の超絶技巧」である。章の冒頭にあるのが、左の「鳳凰図」(1835年, 76歳)。原図は八曲一隻(せき)屏風で、横は2mもあり、ここには掲載しにくいので、中央やや左の鳳凰の顔を中心とした部分のみ掲載した。

鳳凰には長く伸びた羽毛、そのそれぞれの先端には目のようなものが付いていて、あらゆる方向に伸びている。
そして緑、青、赤などの原色で描かれた羽根を大きく拡げながら、鳳凰の目つきは鋭く前方を見つめている。

もうひとつ「鯉亀図」(1813年, 54歳)も紹介しよう。これもかなり横長なので、左の落款の部分が欠けている。
「水草と鯉の眼の部分に淡く藍色が施されているだけの、ほぼ墨の濃淡だけで描かれている作品」(82)である。
水の中を泳いでいるのか、空中を浮遊しているのか、どちらにも見える。鯉の鱗は、単色で描かれているのに身の厚みを感じさせる。そして鳳凰と同様に、鯉の目の見つめ方が柔らかいがとても鋭い。

『北斎肉筆画の世界』に掲載されている作品はあまりにも多数で、とても紹介しきれない。それらはそれぞれが異なったテーマと描き方をしていて、北斎は肉筆画でもその能力を遺憾なく発揮している。ぜひ見ていただきたい一冊である。

なお、私のブログには、「北斎晩年最大の傑作、須佐之男命厄神退治之図 No.1」もある。あわせてご覧いただければ幸いです。

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2017年11月17日金曜日

イルデパン 2017年10月

念願のニューカレドニアのイルデパン(Île des Pins, 松の島)に行きました。グランドテール島のヌメアからは飛行機で約30分。ニューカレドニア全体がとても美しい島々ですが、イルデパンは島全体がひときわ美しい。このブログには、いくつかの動画を入れてみました。動画はいったんYouTubeにuploadしてから掲載しましたが、うーん、当然ながら画質が今ひとつです。

今回とても良かったのが、宿泊したコテージがオロ(Oro)湾のすぐ近くで、湾とピッシンヌ・ナチュレール(Piscine Naturelle, 天然のプール)を結ぶ川のほとりにあり、湾と川の両方を楽しめたことだった。川は朝、湾からピッシンヌ・ナチュレールへ流れ、しばらくたつと一時水量が減るが、夕方になるとピッシンヌ・ナチュレールから湾に流れる。水の流れの音だけではなく、周囲の森からは絶えず風の音と、様々な鳥の声が聞こえる。


東海岸にあるオロ湾とは反対の、西海岸に位置するのが、クト(Kouto)湾カヌメラ(Kanumera)湾。すぐ隣り合わせだが、どちらもイルデパンの深く透明な海のすばらしさがとてもよくわかる。座って海を眺めていると、すっかり時を忘れてしまう。
左の写真はカヌメラ湾だが、真っ青な海と、水に沈んだ白い木々が対照的である。

下は、カヌメラ湾のすぐ近くのクト湾である。延々と続く白い砂浜、強い日差し、そしてもちろん真っ青な海、この日はとても風が強かったので、動画には風の音、波の音、そして鳥の声が聞こえる。


下は、改めてイルデパン島の最も有名で、この島を訪れた人が必ず向かうピッシンヌ・ナチュレールの動画である。名前の通り自然にできたプールで、浅いので多くの人が泳いだり潜ったりしている。昼になると観光客も増え、水量が減るので、朝早い時間に出かけ、静かなピッシンヌ・ナチュレールを思う存分楽しんだ。
途中、どこからともなく黒い犬が現れ、ピッシンヌ・ナチュレールはこっちだよと言うかのように導いてくれた。とても不思議な体験だった。

  

今度は、ピッシンヌ・ナチュレールから反対方向を見た動画である。こちらの方向で見ると、オロ湾に向かって流れる澄み切った川と高い松がとても美しい。


最後に、グランドテール島のヌメアにあるニューカレドニア博物館に出かけた。ここでは、ニューカレドニアの歴史と文化が学べる。
たまたま、小学生の見学ツァーと遭遇、日本語でお互いに挨拶した。とても人なつこいこども達だった。

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2017年9月17日日曜日

「並河靖之 七宝展 明治七宝の誘惑-透明な黒の感性」(伊丹市立美術館)

伊丹市立美術館で9月9日から「並河靖之 七宝展 明治七宝の誘惑-透明な黒の感性」が開催されている。展覧会では、以下の大部の図録が販売され、これによって並河靖之の作品群全体がよく理解でき、展覧会の魅力がいちだんとわかりやすくなっている。

なお、並河靖之自身といくつかの主要作品については、以前の私のブログ「日本の工芸:七宝、並河靖之、Shippo, Yasuyuki Namikawa」をあわせてご参照ください。

左図は図録の表紙である。
「本図録は、平成29年1月14日から12月25日まで、東京都庭園美術館、伊丹市立美術館、パラミタミュージアムで開催される「並河靖之七宝」展の共通図録である。」
そのため、248ページからなり、多数の鮮明な画像とともに、詳しい論説や説明が掲載されており、並河靖之の一連の作品を理解するために必須の書籍になっていると思われる。

図録と共に、作品の画像が掲載されている多数の葉書等が販売されているが、右はそのうちの1枚「藤草花文花瓶」である。花瓶の正面と上部から撮った写真が上下に掲載され、作品の細部がよく理解できる、すばらしい1枚となっている。花瓶は明治後期の作品で、図録には38番として掲載されている。

並河靖之の代表的な作品として取り上げられる「四季花鳥図花瓶 」は、図録では正面と左図の背面、そしてそれぞれの詳細画像が掲載されている。その超絶技巧には改めて驚かされる。

この作品は、1899年に完成し、現在宮内庁三の丸尚蔵館に所蔵されている。(正面画像は、上記私のブログを参照してください)




並河靖之のもうひとつの代表作が、今回出品された「桜蝶図平皿」(明治中期の作品、図録では33番、やはり、実物画像は上記の私のブログをご参照ください)である。
 「桜蝶図平皿」の背景は緑色であるが、同じような構図で、背景がピンク色になっているのが、右の「桜蝶文皿」(『七宝』INAXギャラリーより)である。どちらも桜が周りに一面に咲き誇り、中央には羽根をいっぱいに拡げた蝶が舞っている。

今回の展覧会では、これらを含め、作品の下図が多数公開され、作品の制作過程がよく理解できるようになっていることも特色である。

今回の図録は、「並河七宝のはじまり」「挫折と発展一万国博覧会」「並河工場画部一下図」「明治七宝の系譜」「円熟一文様の先へ」「到達一表現のあくなき追求」の6章からなり、年代順に作品が紹介されている。「並河七宝のはじまり」の初期の作品も注目されるが、最後期の「円熟一文様の先へ」「到達一表現のあくなき追求」での作品の変化もとても興味深い。

「明治22年(1889)のパリ万国博覧会で大きな成功を収めた並河は、同年開催された第三回内国勧業博覧会の報告でも妙技一等賞牌を受賞して評価を得ている。しかし、同時に意匠についての指摘がなされており、出品作について「鳳凰唐草でなければ蝶烏の古風な模様を用いており、画風の変化が乏しいこと」から「技量があるのだから、今後進んで考案を極めるべき」と更なる意匠改良を勧められているのである。」(「円熟一文様の先へ」)

並河はこの評価を受け入れて、晩年に至るまで様々な試みを行っているが、その成果のひとつが左上図の「蝶に竹花図四方花瓶」である。「器体全体に文様を張り巡らせるのではなく余白が生まれ、さらに場面を区切るように設けられていた枠が取り払われ、器体をーつの場面とする・・・」ようになったという。(上に同じ)

ところで、この展覧会を開催された伊丹市立美術館は日本庭園にも接し、また美術館周辺には酒蔵などもあり、展覧会とともに十分に楽しめる。ぜひ見に行かれることをおすすめしたい。

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2017年8月21日月曜日

「真の日本の友」グルー駐日大使の『滞日十年』(2)

前回に引き続き今回は、グルー駐日大使による、日米開戦回避に向けての試み、日本降伏の際の日本の立場を尊重した講和条件作成に当たっての貴重な努力を、グルーの著作を通じて紹介しておきたい。言うまでもなく、これらの努力によって、グルーは「真の日本の友」(廣部泉『グルー』の副題)としての評価を幅広く受けている。

駐日大使の国務長官宛報告
『滞日十年』には、開戦直前の1941年9月29日の、グルー駐日大使の国務長官宛報告が掲載されている。
グルーは、1941年7月に第三次内閣を組織した近衛首相との会談を通じ、近衛首相とルーズベルト大統領の会談を持つことで、日米間の緊張を解き、両国の戦争を避けられることを確信し、会談の開催をルーズベルト大統領らに直接訴えた。
「慎重に考えた結果、もし予備会談の線に添う取極めが、提唱された両国首班の会見によってなされるならば、最小限度極東の状況がこれ以上悪化することを防ぎ、恐らくは確実に建設的な成果をおさめうるかも知れぬ本質的な希望があると信じるにいたった。」(『滞日十年』下、236)
しかし、残念ながら結局ルーズベルト大統領は会談に応じず、近衛首相は退陣し、日米開戦に向けた動きが急速に強まる。

グルーの一貫した立場:「建設的な和解」
ところで、グルーは上記の文書で、外交官としての彼の立場をこう強調している。「米国はその目的にとりつくのに、経済上の抑圧を累進的に行うか、いわゆる「宥和」(appeasement)ではない積極的融和方式(constructive conciliation)をとるか、この二つの一つを選ぶ立場に直面することをつけ加える。」(236, 原語はKindle版原書による)
翌30日に、「今や私が主張するのは「宥和」(appeasement)ではなく、「建設的な協和」(constructive conciliation)である。」(246)と繰り返している。訳書では同じ用語について異なった訳語が使われているが、私はこの重要な用語conciliationを、共に和解と訳すのが適当だと思う。


第2次世界大戦終戦後の構想
日米が開戦するとグルーは帰国し、1944年には国務次官に就任した。
独日の敗戦がいよいよ確実になる過程で、大戦終了後の世界をどう統治するかについて激しい議論が連合国内部で行われるようになってきた。
独日との戦争終了後、ソビエト・ロシアとの対立と戦争が確実に起こることを予想し、1945年5月19日にグルーはこう書いた。
「サンフランシスコ会議終了後すぐに、我々の対ソ政策は全線にわたって、ただちに硬化すべきである」(TE, 1446)
戦後、事態はグルーが危惧した通りに進展し、ルーズベルト大統領が推進した米ソ協力は一転、冷戦に変わり、その対立の枠組みは今に続いている。

対日声明案(1945年5月28日)
ドイツ降伏後、日本との講和条件を決めるため、アメリカ及び連合国内で様々な議論が行われたが、グルーは対日声明案に以下の様な内容を含むべきであると、新たに就任したトルーマン大統領に進言した。
「(12)これらの目的が達成され、日本人を代表する疑いも無く平和的で責任ある政府が創設されるならすぐに、連合国の占領軍は日本から撤退する。もし、そのような政府が日本での侵略的な軍国主義の将来的な発展を不可能にする平和的な政策に従うという本当の決意を、平和愛好国が信じることができるなら、現在の皇室のもとでの立憲君主制を含むかもしれない」(TE, 1433)
結局この案は採用されなかったが、日米開戦回避の努力と共に、グル-がいかに日本の政治と社会の実情をよく理解しているかを示している。

2回のブログで紹介した、グル-の『滞日十年』は、終戦後72年のこの夏に、第2次世界大戦と現在の世界を考えるために、多くの人が読んでいただきたい書籍である。

あわせて、第2次世界大戦を見直す大著『裏切られた自由(フーバー大統領回顧録)』邦訳刊行迫る (2017.8.6)をはじめとする『裏切られた自由(フーバー大統領回顧録)』関連の私のブログを読んでいただければ幸いです。


2017年8月20日日曜日

「真の日本の友」グルー駐日大使の『滞日十年』(1)

第2次世界大戦についての様々な資料の公刊を通じて、その評価の見直しの機運も徐々に高まっているが、その過程で日米開戦回避の動きに重要な役割を果たしたグルー駐日大使(Joseph Clark Grew, 1880-1965、駐日大使は1932-1941)の活動に注目が再び集まってきた。本ブログでは、『滞日十年』(Ten Years In Japan)を中心とするグルーの文献を、2回に分けて紹介したい。

まず、『滞日十年』の目次は次の通りである。
上巻
第一章 日本を覆う暗殺者の影(一九三二年五月十四日一九三三年二月十五日)、第二章 嵐に先立つ平穏の三年間(一九三三年二月二十日ー一九三六年二月十一日)、第三章 早産的革命から公然たる戦争へ(一九三六年二月二十六日ー一九三七年四月十八日)、第四章 「支那事変」(一九三七年七月八日ー一九三九年五月十五日)

下巻
第五章 一つの世界と二つの戦争(一九三九年十月十日ー一九四一年十二月七日)、第六章 一つの世界と一つの戦争(一九四一年十二月八日ー一九四二年五月三十一日)

目次からわかるように、記事は1942年で終わっており、また記述は様々な配慮の元で書かれているので、次の文献で補うことも必要になる。"Turbulent Era : A Diplomatic Record of Forty Years, 1904-1945"(以下ではTEと略す、次のブログに表紙を掲載)

ところで、刊行されていない日記などについては、Joseph Clark Grew papersというタイトルで、Houghton Library, Harvard Libraryに所蔵されているようである。(Grew, Joseph C. (Joseph Clark), 1880-1965. Joseph Clark Grew papers: Guide., Houghton Library, Harvard Library, Harvard University)
現在の私の能力と立場では、これらの資料をとても参照できないので、廣部泉氏の『グルーー真の日本の友ー』を、そのまま参照させていただいた。以下では、年代順に、グルーの重要な発言や記述を紹介していきたい。(廣部泉氏の著作は、グルーの考えや行動を理解するための最新の貴重な文献である)

ルーズベルト大統領の隔離(quarantine, 検疫(『滞日十年』上の訳, p.358)演説
各国間の緊張が高まり、国内ではニューディール政策に限界が見えてきた1937年10月5日、ルーズベルトは隔離演説と呼ばれる有名な演説を行った。「身体の疫病の流行が拡がり出したら、共同体は疾病の拡がりから共同体の健康を守るため、患者を隔離することを認めている。」(TE,1161)この演説を一つの重要な契機として、ルーズベルトは日本についてはより強硬に対応するようになる。
これに対し、グルーは「我々の基本的かつ根本的考えは、極東の混乱に巻き込まれるのを避けることである。そして、我々は直接巻き込まれるかもしれない道を選んでしまった」と述べている。(日記、廣部p.105)
グルーはこのように嘆いたが、グルーこそがアメリカの伝統的な外交政策の立場を表明していた。

日本、枢軸国をさけて航行する、
日米間の緊張が高まり、米ソ間の接近がいっそう深まりつつある1939年5月15日に、グルーは、日米間について次の様な重要な指摘を行い、『滞日十年』第四章を締めくくっている。
「ゆえに日本が将来を見透して、自分の友情をどこにおいたら一番利益であるかを決める
のが至当である。・・・。経済、財政、商業、感情のどの点から見ても合衆国は、もし日本が米国と同様につき合うならば、世界中のどの国よりも日本のよい友人であり得るのだ。どの点から見ても日米戦争は、まさに愚の骨頂である」(『滞日十年』上、454)
私も以前に発表した研究『日米コーポレート・ガバナンスの歴史的展開』で主張したように、日米は経済と企業の構造において共通点が多く、満洲などでも共同開発が模索されていた。グルーはその点を正確にとらえていたのである。

ソ連の脅威
同じ年の12月31日に、グルーは先の指摘と一対の、戦後世界を見通す重要な政治的な予言を残している。これらの認識と見通しはその後のグルーの活動を支えている。
「我々がいま入らんとしている十年間について何か政治的予言をするなら、その十年が終わる前に我々は英仏独日が共同してソヴィエトと戦っているのをみるだろうというものになるだろう」(日記、廣部p.128)

次回のブログでは、第2次大戦直前と、終戦直前のグルーの最も注目すべき活動を紹介する。

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2017年8月9日水曜日

フーバー大統領『裏切られた自由』での、中国と朝鮮、『フーバー大統領回顧録』紹介(3)

フーバー大統領の『裏切られた自由』には、中国と朝鮮に関する興味深い記述がある。藤井厳喜他『日米戦争を起こしたのは誰か ルーズベルトの罪状・フーバー大統領回顧録を論ず』(2016年1月刊)と、渡辺惣樹『誰が第二次世界大戦を起こしたのか: フーバー大統領『裏切られた自由』を読み解く』(2017年7月刊)によって紹介しておこう。

これまでの3回のブログでまとめたように、ルーズベルトのアメリカはスターリンのソ連との事実上の同盟関係にあったが、中国においては国共合作を受け入れた蒋介石との協力関係を深めることで、間接的に中国共産党を支援した。ルーズベルトによる共産主義体制との連携と協調は、世界的な規模で進められたのである。それは、日本撤退の後、弱体化した蒋介石政権に代わって中国共産党が全中国を支配する道を開いた。

フーバーは、『裏切られた自由』のDOCUMENT 18 "A Review of Lost Statesmanship--19 Times in 7 Years”で、中国について次のように述べている。
「トルーマン、マーシャルとアチソンが中国に関して、政治の大道を見失ったのが第一八番目の誤ちである。ルーズベルトは、蒋介石が共産党と協力することにこだわって、中国に関する裏切りの秘密協定がヤルタでできた。その結果モンゴルと、事実上満州をロシアに手渡すことになった。トルーマンは全中国を共産主義者の手に委ねてしまった。それはトルーマンの左翼の側近の根強い影響の為である。・・・
そしてとどのつまりは、四億五〇〇〇万ものアジアの人々を、モスクワ傘下の共産主義の傀儡政権の手に委ねる事になってしまった。」(藤井厳喜他:128-9, フーバー:882)

また、フーバーは以前訪問した朝鮮について、Section III The Case History of Korea, Introductionで以下のように述べている。戦後七〇年経っても、学術的な意義のある論証や論争を抜きにして、韓国は日本の統治に批判を続けている。しかし、この文書からも、イザベラ・バードやエッカートが紹介した事実を改めて確認できるだろう。

「当時の朝鮮の状況には心が痛んだ。人々は栄養不足だった。身に着けるものも少なく、家屋も家具も粗末だった。衛生状態も悪く、汚穢が国全体を覆っていた。悪路ばかりで、通信手段もほとんどなく、教育施設もなかった。山にはほとんど木がなかった。盗賊が跋扈し、秩序はなかった。
日本の支配による三五年間で、朝鮮の生活は革命的に改善した(revolutionalized)。日本はまず最も重要な、秩序を持ち込んだ。港湾施設、鉄道、通信施設、公共施設そして民家も改良された。衛生状況もよくなり、農業もよりよい耕作方法が導入された。北部朝鮮には大型の肥料工場が建設され、その結果、人々の食糧事情はそれなりのレベルに到達した。日本は、禿げ山に植林した。教育を一般に広げ、国民の技能を上げた。汚れた衣服はしだいに明るい色の清潔なものに替わっていった。」(渡辺惣樹:170, フーバー:737)

以上のように、『裏切られた自由』は第2次世界大戦の前後の時期についての様々な事実を明らかにしている。これを機会に、ぜひ『裏切られた自由』そのものの検討へと進んでいただきたいと思う。

『裏切られた自由』についての私の冒頭のブログ
第2次世界大戦を見直す大著『裏切られた自由(フーバー大統領回顧録)』邦訳刊行迫る (2017.8.6)

戦前の朝鮮に関する記事については、以下の私のブログもご参照ください。
イザベラ・バード『朝鮮紀行』を読む (2)、Isabella Bird Bishop, Korea And Her Neighbours (2013.9.1)
イザベラ・バード『朝鮮紀行』を読む (1)、Isabella Bird Bishop, Korea And Her Neighbours (2013.9.1)
その時期での日本の経済的な影響については、以下の私のブログもご参照ください。
エッカート『日本帝国の申し子』、Carter J. Eckert, Offspring of Empire (2014.1.4)

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2017年8月8日火曜日

渡辺惣樹『誰が第二次世界大戦を起こしたのか』、『フーバー大統領回顧録』紹介(2)

『裏切られた自由(フーバー大統領回顧録)』(Freedom Betrayed)を紹介した第2の書籍は、『裏切られた自由』の翻訳者である渡辺惣樹氏の『誰が第二次世界大戦を起こしたのか: フーバー大統領『裏切られた自由』を読み解く』(2017年7月刊)である。同書は基本的に『裏切られた自由』の順序に沿って論じている。

目次は次の通り。
一章 ハーバート・フーバーの生い立ち、
二章 『裏切られた自由」を読み解く その一:共産主義の拡散とヨーロッパ大陸の情勢、
三章 『裏切られた自由』を読み解く その二:チェンバレンの「世紀の過ち」とルーズベルトの干渉、
四章 『裏切られた自由」を読み解く その三:ルーズベルトの戦争準備、
五章 連合国首脳は何を協議したのか

以下では、主にフーバー大統領の重要な主張を、章の順序にそって紹介していきたい。この書で、渡辺氏は『裏切られた自由』を詳しく紹介するとともに、ハミルトン・フィッシュの『ルーズベルトの開戦責任』などの関連する重要な文献を紹介している。これらにも注目していただきたい。

二章 
フーバーの基本的な立場
「(ナチス体制を嫌うアメリカ国民は、民主主義国に同情するだろうが)アメリカはヨーロッパの問題を解決できないことを肝に銘ずるべきだ。我が国ができることは、あくまで局外にいて、アメリカの活力と軍事力を温存することである。その力を必ずや訪れるはずの和平の時期に使うべきである。それこそが我が国の世界への貢献のあり方である」(W:44, 107, Editor's Introduction:xxxii)
フーバーは、ルーズベルトの失敗の始まりは共産国家ソビエトの承認であったとしている。この政策の採用には、大統領の周辺と政府組織に入った多くの共産主義者やその同調者が大きな影響を与えているという。

四章
武器貸与法と戦争準備
この法律(武器貸与法、1941年3月)で大統領は開戦権限まで持つことになり、議会は追認するだけの機関になり下がる。このままでは我が国そのものが国家社会主義国家に変貌し、ルーズベルト自身が独裁者となる。」(W:120, Editor's Introduction:l、Wは渡辺氏の著作でのページ数、Hは”Freedom Betrayed”でのページ数、以下同じ)
この法律によって、アメリカはソ連に対しイギリスに次ぐ額の武器を支援した。
「国民も議会も我が国の参戦に強く反対であった。したがって大勢をひっくり返して参戦を可能にするのは、ドイツあるいは日本による我が国に対する明白な反米行為(some overt act against us)だけであった。ワシントンの政権上層部にも同じように考える者がいた。彼らは事態をその方向に進めようとした。つまり我が国を攻撃させるように仕向けることを狙ったのである。」(W:129, H:247)
こうして、着々と日独に対する戦争の準備が進められた。

日米開戦への最終局面での交渉と、フーバーの和平への期待
駐日大使グルーの本省宛ての報告書を、フーバーは詳しく紹介している。「(近衛首相は)現今の日本の国内情勢を鑑みれば、大統領との会談を一刻の遅滞もなく、できるだけ早い時期に実現したいと考えています。近衛首相は、両国間のすべての懸案は、その会談で両者が満足できる処理が可能になるとの強い信念を持っています。」(W:139, H:271)
結局ルーズベルトは会談に応じず、近衛首相は失脚した。
近衛の失脚は二十世紀最大の悲劇の一つとなった。彼が日本の軍国主義者の動きを何とか牽制しようとしていたことは賞賛に値する。彼は何とか和平を実現したいと願い、そのためには自身の命を犠牲にすることも厭わなかったのである。」(W:143, H:277)

五章
ヤルタ会談と秘密協定、原爆投下について、ルーズベルト批判
フーバーは、ニューヨーク・ワールド・テレグラフ紙を引用した。「合衆国はジャップとの戦いに参加させるために、ロシアを賄賂(領土上の不当な要求:新保補足)で釣るようなことをしてしまった。まったく不要なことであった。こんな意味のない賄賂が、これまでにあっただろうか」(W:201, H:693)
この賄賂がロシアの軍事的進出を促し、今なお日本を苦しめている。
「アメリカ人の多くが、この発表がポツダム会談の三カ月前になされていれば、数千のアメリカ兵の命が救われていたと思っている。また数千もの女性や子供あるいは民間人を殺戮した爆弾も投下されなかったと考えるのである。」(W:212, H:565)
前のブログで紹介した、藤井厳喜他『日米戦争を起こしたのは誰か』が紹介したように、フーバーは別の箇所で原爆の投下に明確に反対している。

なお、"Freedom Betrayed"のDOCUMENT 18 "A Review of Lost Statesmanship--19 Times in 7 Years” 1953, pp.875-883については渡辺氏の著作では取り上げられていない。藤井厳喜他と以下の私のブログを参照していただきたい。

<関連するブログ>
第2次世界大戦を見直す大著『裏切られた自由(フーバー大統領回顧録)』邦訳刊行迫る (2017.8.6)
藤井厳喜他『日米戦争を起こしたのは誰か』、『フーバー大統領回顧録』紹介(1) (2017.8.7)

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2017年8月7日月曜日

藤井厳喜他『日米戦争を起こしたのは誰か』、『フーバー大統領回顧録』紹介(1)

『裏切られた自由(フーバー大統領回顧録)』(Freedom Betrayed)を紹介した書籍は、現在2つある。このブログと次のブログで順に紹介したい。
まず、藤井厳喜・稲村公望・茂木弘道著、 加瀬英明序『日米戦争を起こしたのは誰か ルーズベルトの罪状・フーバー大統領回顧録を論ず』(勉誠出版、2016年1月刊)である。

目次は以下の通りである。
序 加瀬英明
鼎談 "FREEDOM BETRAYED" をめぐって 藤井厳喜、稲村公望、茂木弘道
 第一章 誰が戦争を仕掛けたのか
 第二章 過ったアメリカの政策
 第三章 戦争を引き起こした狂気
ウェデマイヤー将軍の回想ー第二次大戦に勝者なし 藤井厳喜
いま明らかになった大東亜戦争の真相 稲村公望
日米戦争は狂人の欲望から 茂木弘道

上記書第二章に、"Freedom Betrayed" (フーバー回顧録)の、ある意味で要約ともなっているDOCUMENT 18 "A Review of Lost Statesmanship--19 Times in 7 Years” 1953, pp.875-883の詳しい紹介がある。内容は以下の通りである。赤字の箇所は、日本と特に関係が深い箇所である。

失われた手腕(「誤り」:藤井氏の訳)
1 一九三三年の国際経済会議の失敗、2 ソ連承認、3 ミュンヘン融和の成功と失敗、
4 英仏の『ポーランドとルーマニア』への独立保証、5 アメリカの宣戦布告なき戦争、
6 警戒心を持った忍耐政策を取らなかった、7 ソ連共産主義を助けた事、
8 一九四一年七月の日本への経済制裁、9 一九四一年九月近衛和平提案を拒絶した事、
10 日本との三ヶ月の冷却期間を拒絶した事、11 無条件降伏の要求、
12 一九四三年一〇月のバルト三国とポーランド東部のソ連への譲渡、
13 一九四三年一二月、七つの国家にソ連の傀儡政権の押し付けを認めてしまった事、
14 ヤルタの秘密協定、15 一九四五年五月~七月日本の和平提案を拒否したこと、
16 トルーマンのポツダムでの決断、17 原爆投下、
18 毛沢東に中国を与えたこと、19 戦後世界に共産主義の種を撒いてしまった事、
(藤井厳喜他, pp.69-135、以下も同様、なお上記のタイトルは、原書タイトルより説明的に追記されている)

上の赤字の項目について、フーバーの主張を詳しく見てみよう。
8 「その経済制裁(1941年7月の日本に対する:新保注)は、弾こそ射って射なかったが本質的には戦争であった。ルーズベルトは、自分の腹心の部下からも再三に亘って、そんな挑発をすれば遅かれ早かれ報復のための戦争を引き起こすことになると警告を受けていた」
9 「皮肉に考える人は、ルーズベルトは、この重要ではない問題(満州の返還)をきっかけにして自分の側でもっと大きな戦争を引き起こしたいと思い、しかも満州を共産ロシアに与えようとしたのではないかと考えることになるだろう」
10 「スティムソンの日記が明らかにしたように、ルーズベルトとその幕僚は、日本側から目立った行動が取られるように挑発する方法を探していたのだ。だから、ハルは、馬鹿げた最後通牒を発出して、そして我々は真珠湾で負けたのだ。」
11 「無条件降伏の要求は、敵国の軍国主義者や扇動者に利用され、ドイツ、日本、イタリアとの戦争を長引かせた。」

14 「スターリンが一二の国々の独立に対して干渉を加えることを追認しただけではなく、数世代に亘って国際関係に危険をもたらす、悪しき勢力の動きを助長するような秘密の協定が多数結ばれた。
15 「日本との和平はただひとつの譲歩で連成できた。それは天皇の地位の保全である。・・・。米国側が、最終的にこの条件を受け入れたのは、数十万の人命が犠牲になった後であった。」
16 「アメリカの経験ある多くの専門家が勧告した、天皇を維持することを許す救済条項を入れないで、無条件降伏を要求したのである。日本側は、回答として、この条件のみを求めたが、原子爆弾が投下された。そして、最後になって、この条件が受け入れられた」
17 「・・・トルーマンが日本人の上に原子爆弾を落とすという非道徳的な命令を下したことである。日本は繰り返して平和を求めていたにもかかわらず。これはアメリカの全ての歴史のなかで、他に比較するもののない残忍な行為であった。これはアメリ力の良心に対して、永久に重くのしかかるであろう

これらの文面から、フーバーは日米間の和平の動きを支持し、開戦の動きを止めようとしたことがわかる。また、一旦戦争が始まると、それが早期の講和に繋がるように期待していたと言えるだろう。

では、以上からもわかるフーバー大統領の基本的な考えはどのようなものだったろうか?まず何よりも共産主義への一貫した厳しい批判である。その批判は、ルーズベルトのソ連の承認に始まり、戦後処理のすべての過程に亘っていた。その批判は、ルーズベルトの政策が、戦後の共産主義体制の拡大、東西冷戦をもたらしたことにも向けられていた。
フーバーはまた、ルーズベルトのニューディール政策が十分な成果を挙げておらず、それに代わって経済のより早い回復のため戦争の開始をめざすようになったと考えている。
しかし、フーバーは、ルーズベルトの考えが、アメリカ国外での戦争、紛争への不干渉という、アメリカの伝統的な政策とも相容れないと見なしていた。

『裏切られた自由』は、日本などの戦争責任のみを一方的に断罪する第2次世界大戦に対する伝統的な見方に根本的な見直しをせまるものである。藤井厳喜氏らの『日米戦争を起こしたのは誰か』はその紹介とともに、独立した論文「ウェデマイヤー将軍の回想ー第二次大戦に勝者なし」の紹介などもあり、より幅広い検討が可能になっている。

多くの方が、まずこの書籍とともに、次回のブログで取り上げる渡辺惣樹『誰が第二次世界大戦を起こしたのか: フーバー大統領『裏切られた自由』を読み解く』も読んでいただき、膨大な『裏切られた自由(フーバー大統領回顧録)』にまで読み進んでいただきたいと思う。

前回のブログ:第2次世界大戦を見直す大著『裏切られた自由(フーバー大統領回顧録)』邦訳刊行迫る

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2017年8月6日日曜日

第2次世界大戦を見直す大著『裏切られた自由(フーバー大統領回顧録)』邦訳刊行迫る

長らく待たれていた『裏切られた自由(フーバー大統領回顧録)』の翻訳が刊行される予定である。上下2巻で上巻は7月13日刊行済み。(Freedom Betrayed: Herbert Hoover's Secret History of the Second World War and Its Aftermath, Edited with an introduction by George H. Nash, Hoover Institution Press, 2011, Pages: 1,080)

ハーバート・クラーク・フーバー(Herbert Clark Hoover, 1874-1964)は、アメリカ合衆国第31代大統領(1929-33)である。大統領在任最初の年に有名な世界大恐慌がアメリカと世界を襲い、その勃発と長期化を防げなかった政治的な責任に対する批判によって、フーバー大統領の評価は高くなかった。
しかし、彼が大統領になるまでの企業家や政治家としての実績、アメリカ的な理念に基づく大統領職務の遂行だけではなく、本書に見られるような膨大な資料の収集とその緻密な検討によって、従来の第2次世界大戦観を見直そうとした彼の業績が改めて見直されようとしている。

次回のブログから2回に分けて、藤井厳喜他『日米戦争を起こしたのは誰か ルーズベルトの罪状・フーバー大統領回顧録を論ず(2016年1月刊)と、渡辺惣樹『誰が第二次世界大戦を起こしたのか: フーバー大統領『裏切られた自由』を読み解く(2017年7月刊)によって、"Freedom Betrayed"を読み解いていきたい。

フーバー大統領の基本的な考えは、何よりも共産主義への一貫した厳しい批判である。その批判は、ルーズベルトによるソ連の承認に始まり、ソ連との同盟による戦争準備、終戦処理でのソ連への大幅な譲歩などのすべての過程に向けられていた。それは同時に、そのルーズベルトの政策が、戦後の共産主義体制の拡大、東西冷戦をもたらしたことにも向けられていた。
スターリン支配下のソ連と各国での共産主義運動との対決を念頭に、フーバーは日本に対しては日米開戦の回避、開戦後は速やかな講和を求めていた。その意味で、日本人にとって第2次世界大戦を根本的に見直すための不可欠な文献である。

今、冷戦時とは状況がやや異なるとは言え、共産党一党独裁を強める中国の軍事的海外進出や、国内の民主化運動への弾圧、北朝鮮の度重なる軍事的挑発、ソ連崩壊後のロシアの軍事的海外進出は、冷戦時に匹敵する世界的な混乱と危機を生み出している。
これらの事態に対しどう対処すべきかについても、この書籍は私達に重要な示唆を与えてくれる。

まず、"Freedom Betrayed"の構成は、以下の通りである。
VOLUME I
I A Great Intellectual and Moral Plague Comes to Free Men, II I Make an Appraisal of the Forces Moving among Nations in 1938, III A Revolution in American Foreign Policies, IV 1939: In Europe, a Year of Monstrous Evils for Mankind, V The Communist-Nazi Conquest of Europe, VI More American Action-Stronger Than Words-but Less Than War, VII Brainwashing the American People, VIII The Revolution in American Foreign Policies Continued, IX The Opportunity to Make Lasting Peace Comes to Franklin Roosevelt, X The Road to War
VOLUME II
XI The March of Conferences, XII The March of Conferences, XIII The March of ConferencesーThe Tehran-Cairo Conferences November-December 1943, XIV The March of Conferences, XV The March of ConferencesーThe Yalta Conference: February 4-11, 1945, XVI The Rise, Decline and Fall of the Atlantic Charter, XVII The First Days of the Truman Administration, XVIII The March of Conferences-The Potsdam Conference and After
VOLUME III: Case Histories
I A Step-by-Step History of Poland, II The Decline and Fall of Free China-A Case History, III The Case History of Korea, IV Vengeance Comes to Germany
APPENDIX 
Selected Documents Pertaining to Freedom Betrayed 
About the Author and the Editor
Index

第2次世界大戦について見直すためには、『第二次世界大戦に勝者無しーウェデマイヤー回想録』やハミルトン・フィッシュの『ルーズベルトの開戦責任 -大統領が最も恐れた男の証言』などは、本書ともに必読の文献である。ウェデマイヤーとフィッシュの文献については、すでに私の以下のブログで紹介した。これらの著作をあわせ読めば、ルーズベルトによる共産主義体制との妥協を基本とする外交政策は、アメリカ国内で幅広く批判されていたことが理解できる。

ハミルトン・フィッシュ(Fish, Hamilton)の『ルーズベルトの開戦責任』 (2015.7.17)
第二次大戦に勝者なし ウェデマイヤー(Wedemeyer,Albert C.)回想録 (2015.7.21)

『裏切られた自由』(上)の出版社草思社のwebsite
草思社のブログでの同書の紹介

2017年7月24日月曜日

劉暁波の死を悼む

中国の民主化をめざして活動してきた劉暁波氏が、肝臓がんのため、7月13日中国遼寧省瀋陽の病院で亡くなった。服役中に患ったがんの治療を国外でという本人と家族の希望を、中国政府は受け入れなかった。

氏の死を悼む行動や出版は、残念ながら決して多くはなかった。出版としては、ニューズウィーク日本版(7月25日号)がSpecial Reportを掲載し、「彼の早過ぎる死に中国政府は重大な責任を負う」と書いた。

劉暁波氏の構想は、彼の著書「天安門事件から「08憲章」へ」によく表れている。私は私のブログ「決して忘れてはならない天安門事件と08憲章、Tiananmen Square protests of 1989 and Língbā Xiànzhāng」(2015年6月1日(月曜日))で詳しく紹介した。

改めて以下に目次を示すので、ぜひ多くの方が読んでいただきたいと思う。
以下は、08憲章の概要である。(同書、209-227ページ)
「一 前書
二、我々の基本理念
 中国の未来の運命を決定するこの歴史の岐路に立ち、百年来の近代化の歩みを省みて、下記の基本理念を再び言明する必要がある。
 自由、人権、平等、共和、民主、憲政
三、我々の基本的主張
 これにより、我々は、責任を担う建設的な公民の精神に基づいて、国家の政治制度、公民の権利と社会発展の各方面について、以下の具体的な主張を提起するものである。
 1、憲法改正、2、分権の抑制的均衡、3、立法による民主、4、司法の独立、5、公器の公用、6、人権の保障、7、公職の選挙、8、都市と農村の平等、9、結社の自由、10、集会の自由、11、言論の自由、12、宗教の自由、13、公民教育、14、財産の保護、15、財税改革、16、社会保障、17、環境保護、18、連邦共和、19、正義の転換
四、結語」

重要なのは、最後に「署名規則」があり、「一 本憲章は公開署名とする。二 本名または常用のペンネームで署名し、所在地と職業を明記されたい。」と記述されたことであり、署名者は303名(第一次)となっていた。

憲章が公表されてほぼ10年が経過したが、中国の民主化をめぐる状況はいっそう悪くなっている。中国国内での民主化運動に対する徹底的な弾圧、インターネットの管理と統制はさらに強まり、対外的には南シナ海などのへ海洋進出、香港の一国二制度の形骸化、台湾の外交活動への妨害、日本への挑発的な軍事行動、などである。
こうした行動を支えているのは、中国経済の発展である。中国経済の影響力は、内部に深刻な問題を抱えながらも拡大している。中国経済に依存が深まっている日本や、ヨーロッパ諸国が、民主化運動を弾圧する中国政府に批判を抑制している。

しかし、民主化運動への弾圧と独裁政治はいつまでも続けることはできない。弾圧を続ける過程で、政治的な支配層や有力な企業に腐敗や不正が拡大し続けるからである。経済成長の鈍化、格差の拡大とともに、民主化への移行が現実となるだろう。そのときに再び劉暁波氏の遺産が再び脚光を浴びるに違いない。

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2017年7月12日水曜日

アジア企業の最新ランキング:インド・台湾企業の躍進

 日本経済新聞社は、2017年6月にアジア企業の最新のランキングを発表した。「Asia300」の327社を対象に成長力(2016年度までの5年間の売上高と純利益の平均増減率)、収益性(16年度の売上高純利益率)、資本効率(同自己資本利益率=ROE)、安全性(同自己資本比率)を独自に点数化し、総合的に優れた企業をランキングしている。最上位のLargan Precisionを100とし、各企業はそれに対する比率で表されている。
 この調査について、私は論文「アジア企業の最新ランキングとインド企業の躍進」で詳しく検討した。以下はその簡略版である。
 表1(簡略版)は、上位15社と上記の経営指標、筆頭株主を示している。ここで注目すべきなのは、15社のうちインド企業が5社、台湾が4社となっていること、インド企業は情報技術で優位に、台湾企業はTSMCやLARGAN Precisionだけでなく多様な企業を含むことである。
 ところで、アジア企業には政府系企業(背景が緑色)、外国企業系企業(オレンジ色)、財閥系企業(青色)が有力であると見られてきたが、中国などを除けば次第に後退していることもわかる。


  上記論文では、アジア企業で最も注目されているインド企業についても詳しく検討している。表4(簡略版)はアジア企業と同じ指数に基づくインド企業上位10社を示している。上位5社については表1で示した。6位以下では、LupinなどのPharmaceuticalsの企業や、日本のスズキの子会社Maruti Suzukiなどの活躍が注目される。






輸出志向工業化の開始以降続いてきたアジア企業の躍進は、またひとつ新たな段階を迎えようとしている。先行したアジアNIES、ASEAN、中国などを追跡してきたインド企業が、新たなIoT(Internet of Things)革命の進化の過程で新しいけん引役となっている。インド企業は経営効率の面でアジア企業の最先端を走っているだけではなく、市場と幅広い株主を基盤にした企業の発展もけん引している。
 詳しくは、上記の私の論文を参照していただけましたら幸いです。

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2017年6月19日月曜日

奈良の円成寺、Enjyouji in Nara

奈良駅からバスで約30分、柳生への途中にある円成寺(本ブログタイトルの英語表記はweb addressから採った)を初めて訪れた。
一部の旅行案内にはあるが、交通の便があまり良くないにも関わらず、かなりの人が訪れている。柳生への行き帰りに立ち寄っている人が多いのだろうか。
ちょうど青紅葉の季節でもあり、まず入口の美しさに期待が膨らんだ。

門をくぐってすぐに、広大な庭園に驚く。手入れも隅々までとても行き届いていて、期待通りの美しい庭園だった。
「平安時代末期に寛遍上人のころに造成されたと見られています。平安から鎌倉時代にかけて貴族住宅に流行した寝殿造系庭園に類似し、寺院としては阿弥陀堂の前面に広がる浄土式庭園として、奥州平泉(岩手県)の毛越寺庭園とともに貴重な遺構です。」(円成寺HPから)

本堂に入るとこれまで見たことも無いような極彩色の柱に囲まれた内陣がある。下に見るように、今でもその色は確認できる。

やはりHPによれば、「本堂内陣母屋四本柱には、本尊阿弥陀如来に従うように観音菩薩、勢至菩薩をはじめ、様々な楽器を演奏し舞い踊る諸菩薩が極彩色で描かれています。」
(円成寺のパンフレットは白黒なので、左の写真は『関西の寺あそび』(京阪神エルマガジン社、2017年、p.94-5)を利用した。)

柱絵の主な部分を拡大したのが、次の画像である。このようにあでやかな衣装から独特な楽器に至るまでの絵が四本の柱いっぱいに豪華に描かれている。
本尊や柱絵の諸菩薩、さらには本尊を守っている四天王像のすべてが原色のままであったなら、さぞかしまばゆいばかりの極楽浄土を再現することができただろう。
(画像は、円成寺パンフレットから)


以上は本堂であるが、左の写真は、平成に入って再建された多宝塔の本尊である大日如来坐像である。

運慶の20代歳代の作品とみなされている。像は穏やかながら若々しい表情で描かれているように思われる。
寺のパンフレットによれば、「唯一の自筆の墨書銘をもっ最初期作として、日本彫刻史上画期的な意義をもっ尊像である。」
多宝塔は風雨を避けるため入口がガラスになっているが、寺が準備した眼鏡でガラス越しではあるが像をはっきりと見ることができる。
(画像は、円成寺パンフレットから)

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2017年5月25日木曜日

新緑の秋篠寺再訪、Akishino-dera in Nara

キーワード(Key Words): 秋篠寺(Akishino-dera),  伝伎芸天立像(Gigeiten-ryuzo), 十二神将像(Juni Shinsho-zo)

新緑の秋篠寺を訪れた。近鉄大和西大寺駅から歩いて10分あまりで行ける。
久しぶりに行ってみたが、寺全体がとても美しくなり、新しいパンフレットも刊行されたので、このブログでぜひ紹介したい。(2016年9月刊行, 全35ページ)
左に掲げたパンフレットの表紙はちょうど今頃の写真で、青紅葉が美しい。もちろん秋の紅葉の時期も美しいことが十分に想像される。
また寺には苔が生い茂っている庭があり、それをぐるりとまわって本堂に行くことになる。

奈良市観光協会によれば、「奈良時代末期780年頃、光仁天皇の勅願によって建立され、開山は善珠僧正と伝えられています。平城京西北の外れ「秋篠」の地に建てられたためこう呼ばれています。
平安時代末期に戦火のため伽藍の大部分を焼失し、鎌倉時代には今の本堂がもとの講堂の跡に再興されましたが、金堂や東西両塔の跡は雑木林になってしまっています。」



秋篠寺の最も有名な仏像は、伝伎芸天立像(重文)である。頭部は奈良時代末期に、体部は鎌倉時代に作られたと言われる。
「伎芸天が本来の尊名であったか否かは定かではないが、美しく静かに動くしなやかな肢体や、あたかも天上界の歌が聞こえるような口元や表情などからは、この尊名がまことに相応しい。」(上記パンフレット, p.21)

像からは、頭部を中心にかなりはっきりと鮮やかな朱色が読み取れる。衣からは緑色もかすかに見える。
近づいて見てみよう。顔を少し傾け、じっと目を閉じ、わずかに口を開けて、静かに祈っているのか、あるいは歌っているのだろうか。

もうひとつ注目したい像を紹介したい。十二神将像である。この像は、「本尊薬師三尊像の両側に六躯ずつ二列の階段状に安置されている」(p.12)

「十二神将は薬師如来とその信者たちの守護神で、昔、釈迦と同様に印度の王子として生まれた薬師は、衆生の苦しみを救うために出家。苦行中に十二の大誓願を立て、やがて大願成就して東方薬師浄瑠璃浄土の教主となるが、この十二の誓願を守護するために現われた十二の夜叉大将が十二神将である。」(p.12)

秋篠寺の十二神将像は、精微に彫刻されているだけではなく、彩色の保存状態が良く、ある程度元の像を想像できる。

何よりも注目したいのは、それぞれの像のポーズと表情がとても変化に富んでいることである。十二神将像は、同じ奈良の新薬師寺にもあり、その方が有名であるが、私は柔らかな身のこなしと独特な表情の左の写真の二像を含む、秋篠寺の十二神将像が興味深く思える。
ぜひ比べていただきたい。

これらの像を原色で見ることが出来れば、さぞかし堂内では豪華絢爛で荘厳な雰囲気を味わえるだろう。

秋篠寺も先に紹介した新薬師寺も、奈良の中心部からはやや離れているせいだろうか、観光客は未だ多いとは言えない。東大寺、薬師寺、唐招提寺とともにぜひ訪れていただきたいお寺である。

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2017年5月4日木曜日

高木宏之氏の満洲鉄道写真三部作(2)

前回のブログ「高木宏之氏の満洲鉄道写真三部作(1)」に続いて、同(2)では、満洲に建設された重要な企業や施設とその建物、そして満洲から周辺の国・地域に波及した鉄道の写真を紹介したい。このような掲載写真の幅広さが三部作のもうひとつの重要な特徴である。

写真6 (Aより)
写真6:満洲中央銀行総行
満洲では第1次世界大戦後、リットン調査団も認めるほど、多くの通貨が乱立しその価値が低落していた。満洲中央銀行は、幣制を統一するために、旧通貨の整理回収と新通貨としての国幣の価値安定のために、1932年に設立された。価値安定のために、それを、当初は中国と満洲でなじみが深い銀にリンクする管理通貨とした。
(写真番号の後ろのABCは前回ブログに示した文献番号)

写真7 (Cより)
写真7:.飛行機上より鳥瞰した東洋一を誇る大連満鉄医院及その附近
「満鉄は創業とともに、関東都督府・居留民会・野戦鉄道提理部より合計13の病院を引き継いで整理統合し、大連に本院を置いた。1909年、「病院」を中国風に「医院」と改名し、一般住民にも診療対象を広げた。」

以下では、満洲で築かれた鉄道事業が、中国や朝鮮にどのように広がったのかを示す貴重な写真を紹介したい。

写真8 (Bより)
写真8:華北交通パシロ1546(1941年川崎製)
「華北地方の中国鉄道は、1937年の支那事変にともなって日本陸軍鉄道連隊の占領下におかれ、満鉄による管理・整備をへて、1939年4月に発足した日中合弁の華北交通株式会社に移管統合された。」

後に、中部中国にも、同じ日中合弁の鉄道会社として、華中鉄道も創設された。当時、日本企業が進出した海外での企業は、ほとんどが現地との合弁であった。

写真9 (Bより)
写真9:京義線土城駅に進入するパシシ形976(1934年川崎製)
「1937年8月、京義線土城駅(京城起点82.5km)に進入するパシシ形976(1934年川崎製)牽引の上り旅客列車。」

朝鮮では、朝鮮総督府鉄道とともに、朝鮮鉄道、朝鮮京南鉄道、平北鉄道などの民間企業が活動していたが、朝鮮鉄道を除いて比較的小規模であった。

写真10 (Cより)
写真10:鴨緑江大鉄橋
「1911年11月1目、安奉線全線が標軌で開通し、翌日、満鉄・鮮鉄(朝鮮総督府鉄道)直通運転開始・・・。鴨緑江橋梁は韓国統監府(併合後は朝鮮総督府)が新義州~安東聞に巨費を投じて架設した、全長3,098フィート(944m)の大鉄橋で・・・、東洋初の旋回式鉄道橋であった。」

ここでも日本は最新の技術を投入していた。この鉄橋によって、日本と朝鮮・満州間の物や人の流れはいちだんと活発になった。

鉄道は戦間期の最も重要なインフラストラクチャであり、それが満洲や朝鮮の経済発展の重要な基盤となった。鉄道の建設と経営に日本と日本企業の果たした役割は非常に大きかった。詳しくは、私の前掲書Japanese Companies in East Asia: History and Prospects: Expanded and Revised Second Editionもご覧ください。
高木宏之氏の三部作は、以上の事実を理解するのにとても貴重な資料となっている。ブログではわずかに10枚しか紹介できなかったので、ぜひとも三部作を手にとってご覧いただきたい。

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高木宏之氏の満洲鉄道写真三部作(1)

高木宏之氏は最近満洲の鉄道写真に関する三部作を公刊されている。三部作は多数の貴重な写真を掲載しているので、以下で2回に分けてその一部を紹介したい。ぜひ多くの人が読まれることをお薦めしたい。
この三部作で最も重要なのは、南満洲鉄道である。南満洲鉄道は戦間期日本で最大の企業であり、日本の海外進出企業でも最大の企業であった。その活動は、日本と満洲の経済発展に大きく貢献した。
私は南満洲鉄道について、Japanese Companies in East Asia: History and Prospects: Expanded and Revised Second Editionなど通じて検討してきたが、これらの研究とともに、写真や絵葉書などによる視覚的資料によって理解するのもとても良い方法のように思われる。

まず、三部作の目次の紹介である。
写真1 (Aより)
写真で行く満洲鉄道の旅(A)
第一部 満鉄本線の旅・大連~長春(新京)間、第二部 満洲国鉄の旅
第三部 東清(中東/北満)鉄路の旅、第四部 満鉄安奉線の旅・奉天~安東間
コラム 満洲の公共建築
高木宏之、潮書房光人社、2013年
(写真を見ていただく際のご注意:写真が原本の2ページにわたっている場合があります、以下でも同じ)

写真2 (Bより)
満洲鉄道写真集(大型本)(B)
第1部 SMR “Rolling Stock” Album、第2部 「あじあ」興隆の時代
第3部 日満の架け橋・鮮鉄
高木宏之、潮書房光人社、2012年

写真に見る満洲鉄道(C)
第1部 満鉄の車両と路線、第2部 鉄道以外の満鉄の事業
(付)独立守備隊
高木宏之、光人社、2010年

以下では、私なりに順序を変えて三部作の最も興味深い写真を紹介したい。第1回は南満洲鉄道関連の5枚である。
写真1奉天駅のあじあ号
「奉天より内地宛に投函された絵葉書で、・・・画像は奉天駅第一ホームに到着したハルピン発上り12レ「あじあ」、牽引機はパシナ9(もと978、1934年川崎車両製)・・・。・・・撮影時期は機関車が改番後の1938~39年と思われる。」(「・・・」は三部作中の説明である)

あじあ号は南満洲鉄道が誇る特急であった。1934年には、あじあ号が、大連~新京間の 704.1kmを、当時の日本としては最速の最高時速120km/h(時には170km/hを記録)で走破した。なお、あじあ号の背景にある奉天駅にも注目したい。

写真2パシナ形のラストナンバー981
「パシナ形は合計12両で、970~ 972が1934年沙河口工場製、973~ 980が同年川崎製、981が1936年川崎製であった。981は他の11両と前頭形状が異なり、川西航空機における風洞実験にもとづく傾斜円筒面で、「ヘルメット形」と称された。」

写真3 (Aより)
写真3:あじあの豪華なる食堂車 
あじあ号の客車は二重窓、空調完備で、写真は食堂車である。人々の表情から豊かな食事を静かに満喫していることが読み取れる。

写真4:沙河口汽車工場の壮観
写真4(Cより)
「1929年頃の機関車職場内部の状況・・・。なお、1929年時点での同工場の年間製造能力は、機関車24両・客車48両・貨車600両、年間修繕能力は機関車240両・客車360両・貨車2.400両、従業員は日本人約1,200名・中国人約1,300名であった。」

現代では直接投資による現地生産を行うことは一般的であるが、南満洲鉄道はすでにこの時代に、日中協力して最先端の鉄道を現地生産していた。

写真5 (Cより)
写真5満鉄直営大連ヤマトホテル
「新築の大連ヤマトホテルは、新市街の中央大広場に面した一等地に1909年6月に起工され、1914年3月に竣工した。建屋はネオ・ルネサンス様式による鉄骨レンガ・石材混造4階建で、正面にイオニア式の円柱8本を配した本絡的な西欧建築であった。絵葉書は1930年頃の撮影と思わ(れる)」

南満洲鉄道の事業は多角的に行われていた。傘下には、昭和製鋼所、満州化学工業、満州炭鉱、大連汽船、満州電業、南満州ガスなどの多彩な企業があり、そのうちのひとつがホテル経営であった。

高木宏之氏の三部作は上記のように、ひとつひとつの写真に詳しい注記があり、はじめてこれらに接する人々にも良く理解できるようになっている。これもまた三部作の重要な特徴となっている。