2016年3月14日月曜日

細見美術館の春画展に行ってきました、SHUNGA Exhibition at Hosomi Museum

English Abstract
"Shunga Exhibition" at the Hosomi Museum in Kyoto from February 6 

The exhibition's official website explains that “Shunga refers to paintings and woodblock prints of high artistic value that combine sexual content with humor. During the Edo Period, in fact, this genre was called warai-e.” A large number of men and women of all ages visited the exhibition. The exhibition pictorial record consists of 630 pages, the image quality is very clear, and the binding style is excellent and easy to open wide for viewing. The Shunga, which made full use of excellent ukiyoe artistic techniques, becomes another indispensable world of ukiyoe. Shunga was mass-produced, many people enjoyed, Shunga was one of the symbols of the rich Edo period.

2月6日から京都の細見美術館で「春画展」が」開かれている。展覧会のHPでは、開催の趣旨を次のように説明している。
春画は江戸時代には笑い絵とも呼ばれ、性的な事柄と笑いが同居した芸術性の高い肉筆画や浮世絵版画の総称です。
特に欧米では、19世紀末ジャポニスム時代以降、高い評価を得てきました。近年では、2013年から2014年にかけて大英博物館で開催された「春画 日本美術の性とたのしみ」展が大きな話題を呼びました。
このたび、東京の永青文庫で昨年、開催された日本初の「春画展」が京都に巡回するはこびとなりました。」

この展覧会はとても注目されていたので、さっそく行ってきた。10時開館に間に合うように出かけたが、すでに長蛇の列、展覧会に対する関心の高さがうかがわれた。入館者は、私達シニア世代の男女だけではなく、若い世代の男女も多く、男女比率はほぼ半々ではないかと思われるほどだった。

この盛況では当然ゆっくりと見ることができず、上の図録(4,000円)を買うことにした。あまりに高いので一度は躊躇したが、図の通り630ページにもなる大著であるだけではなく、画質がとても鮮明で、特に綴じ方が優れていて絵が見開きでとても見やすくできている。ぜひお薦めしたいだけではなく、他の展覧会などの図録、さらには一般の画集でもぜひとも採用して欲しいと思った。
展覧会と図録は三部から構成されている。I 肉筆の名品、II 版画の傑作、III 豆判の世界である。これに小林忠氏の「春画の受容」を含め六つの解説、絵師解説、作品目録が付いている。

ちなみに図録の表紙に使われているのは、春画史を飾る名品のひとつとされる「67 袖の巻 鳥居清長 天明5年(1785)頃」(p.322-30)である。浮世絵であまり見られない横に細長い12枚組み物で、この画は身体はわずかな数の線で描かれ、紙の白さが肌の白さを強調している。

以下では、ごく一部の代表的な作品を紹介したい。ただし、「18歳未満の方の目に触れませんよう、本書のお取扱いには十分ご配慮をお願い致します。」と言うことなので、画像の選択には注意した。

まず、「40 狐忠信と初音図(春画扉風) 絵師不詳 江戸時代(19世紀)」(p.236-7)である。「一見、男女の鎧武者が組み合っているとのみ見えるが、男の草摺をめくり上げると、交合部が露わとなる。その趣向から遊廓などの調度として作られたと考えられている。」
この絵に対応する絵が図録の次のページにある。この二枚は、I 肉筆の名品の最後を飾っている。

次からの三枚は、浮世絵の巨匠達の作品である。これらはすべてII 版画の傑作に含まれる。
まず、「58 風流座敷八景 鈴木春信 明和7年(1770)」(p.286-9)である。
全部で8図から構成されているもののひとつである。「本来、風景図である八景を座敷内に見立てたものとして、巨川こと旗本の大久保忠舒(1722~77)のもとで春信が描いた「座敷八景」がある。本作はその趣向を踏襲して春画にしたもの。」
鈴木春信の最も有名な作品のひとつ「雪中相合傘」を、このブログの「「浮世絵の至宝 ボストン美術館秘蔵 スポルディング・コレクション名作選」で紹介しているので、これと対照的に見ていただいてもおもしろい。

そして、「69 歌まくら 喜多川歌麿 天明8年(1788) 浦上満氏蔵」(p.332-343)である。
「歌麿の狂歌絵本の代表作である「画本虫撰J と同年に刊行された、歌麿の枕絵を代表する画帖。全12図と序・跋で構成。」

この一枚で顔で見えるのは男性の片目のみ、身体で見えるのは二人の手を除けば、女性の尻から足の一部のみだが、それが逆に画のねらいをよく示している。
この画も、先の「「浮世絵の至宝 ボストン美術館秘蔵 スポルディング・コレクション名作選」で紹介した歌麿の技法、「娘日時計」午の刻で使った、女性が羽織った薄衣から白い肌が透けて見える技法が見事に使われている。

ここに掲載する最後は、「73 喜能会之故真通 葛飾北斎 文化11年(1814) 浦上満氏蔵」(p.363-75)である。
「北斎の艶本の代表作の一つであり、なかでも下巻第3図にあたる大蛸と小蛸が海女を襲う図(P372、373、左の画)は、北斎のみならず、浮世絵の春画全てを見渡してみても強く記憶に残るものであろう。しかしながら、・・・全体の構成は北斎によるものだが、部分的に門人が代作している可能性が指摘されている。」
この画は、自然界のあらゆるものを描き尽くした北斎でこそ着想できた蛸と女性というテーマなのだろう。画面全体が文字で埋め尽くされているが、声や音が執拗なまでに書き込まれているそうである。これも北斎のひとつのチャレンジかもしれない。

これらの版画の後に、III 豆判の世界が現れる。豆判は縦9センチほど、横13センチ弱の版型の小さな版画で、持ち運び用に作られたと言う。

浮世絵師の多様な技法を駆使した膨大な春画は、浮世絵のもうひとつの不可欠な世界となっている。それが大量に生産され多くの人々が楽しんだという事実は、豊かな江戸時代の象徴のひとつと言えるだろう。

最後に改めて、浮世絵全般を取り上げた、この展覧会の図録のような色鮮やかで見やすい図録や画集が次々と出版されることを期待したい。

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2016年3月7日月曜日

2.26事件を国際金融・資本関係から考える、三谷太一郎「ウォール・ストリートと極東」を読む

English Abstract
Taichiro Mitani's "Wall Street and the Far East" helps us consider the 2.26 Incident from an international finance and capital relations perspective

China in the 1930s had a huge debt. Developed countries including Britain invested vigorously in railroad construction and other enterprises. However, the Chinese international balance of payment with the silver standard grew worse with the silver price jump, and the monetary system fell into crisis. The influence also spread to Hong Kong and Britain. Britain then dispatched Leith-Ross to ask for cooperation from Japan. If Japan accepted Leith-Ross's proposal, improved the relationship between Japan and China, and promoted international cooperation, the wide-ranging profits of Japan including Manchuria's interests would probably have been protected. Mitani’s book illuminates and details the international politics of the year before the 2.26 Incident.

前回のブログに続き、2.26事件を取り巻く国際的な金融・資本関係について検討し、事件について改めて考えてみたい。

三谷太一郎氏の「ウォール・ストリートと極東」は、2.26事件前後の国際関係を考察するのにも重要な文献である。
三谷氏の同書全般の課題は、「第一次世界戦争後に成立した日本の政党制と国際金融システムとの関係について具体的に検証し、その観点から日本の政党政治が何であったかを明らかにする」ことである(序)
同書の検討のすべてが興味深いが、ここでは2.26事件前後の箇所について紹介したい。もちろん、三谷氏の方法そのものも、今日でもきわめて重要である。
三谷氏は、「7 国際金融資本とアジアの戦争」の「六 中国幣制改革と四国借款団」で、Stephen Lyon Endicott, Diplomacy and Enterprise: British China policy 1933-1937に依拠して、次のような事実をあきらかにする。

当時の中国には、イギリスを含む先進国が鉄道建設を含め積極的に投資した膨大な債務があった。ところが当時銀本位制を採用していた中国は、銀の高騰に伴って国際収支が悪化しその幣制が危機に陥っていた。その影響は香港や、イギリスにも及ぼうとしていた。そこで、イギリスは国際的な責任としてだけではなく、自国の金融上の利益を護るため、リース・ロス(下記の写真)を日中を含む各国に派遣し、事態を打開しようとした。

Diplomacy and Enterpriseから
リース・ロスの提案は次のようなものだった。
「(一)銀本位制の放棄とポンドと連結した管理通貨制への移行。
(二)1000万ポンド借款供与。但しその半分は英国政府保証、他の半分は日本もしくは日本を含む他の諸国政府保証。
(三)借款供与は形式上満州国に対して行われ、担保は満州国政府収入に設定される。そして形式上満州国政府が受け取った手取金は、中国が満州を失ったことに対する賠償金として満州国政府から中国政府に支払われる。」(p.216-7)
このような方策によって、中国が満洲国を承認し、イギリスその他の諸国も同じ動きをすれば、先に述べた課題は解決されると考えられた。

さらに、リース・ロスはもうひとつ踏み込んだ提案を行っていた。「日中平和友好条約」である。
これによれば、「中国は満州国を承認するが、これに対して日本はまずその政治的代償として長城以南の中国の政治・行政への介入を行わない保証を与える。さらにその経済的代償として一九三二年の満州国出現前に中国が負担していた内外債の相当の割合(日本側に明らかにしたところによれば、「関税収入ノ割合ヨリシテ全体ノ三割トシ年額約百万磅ノ負担」)を満州国が承継し、その金額を中国政府に支払うというものであった。」(219)

以上の記述から、イギリスが日本に対し、非常に大胆で日本にも有利な提案を行っていたことがわかる。1933年にリットン報告書が採択されたことを契機に、日本は国際連盟を脱退したが、それが直ちに日本の孤立を生み出したわけではなく、上記のような動きもしばらくは続いたのである。

しかし、このような動きに対する、日本側の反応は以下のように冷淡なものであった。
日本外交文書」の「九月十日の広田外相とリース・ロスの会談内容について」という文書によれば、外相は「又唯漫然ト「クレヂツト」ニ應スルハ考ヘモノニテ結極南京政府ノ浪費スルトコロトナルヘシ」(645)と述べた。
また、「九月十七日の重光外務次官とリース・ロスの会談内容について」という文書では、重光外務次官は、「満洲國ノ承認ノ如キハ支那ノ爲メニ利益ナルモ満洲國トシテハ之カ爲別ニ特ニ獲ル所ナカルヘシ兎ニ角本問題ハ日満支ノ間ニ必ス遠カラス交渉アルコトトナルヘキ處」(646)と述べた。
(注:三谷氏は、「日本外交年表並主要文書」から引用されているが、ここではより新しい「日本外交文書」を用いた。二つの文書にはやや異なる表現がある。その相違の理由についての説明は「日本外交文書」には無い)

日本側が、リース・ロスの提案を受け入れ、国際間の金融・資本関係を前提にした、より現実的な対応をしていれば、中国の幣制は安定し、日本以外の国々からも積極的な投資が行われ、外国投資による中国のいっそうの経済発展を可能にしただろう。そうすれば、日中間の関係を改善し、国際協調を推し進めることで、日本の幅広い利益が護られたであろうと思われる。

ここで冒頭の2.26事件の問題に帰るが、2.26事件の指導者や、その勃発に動揺した軍の首脳達のかなりの人々が、このような国際関係の現状を理解し、現政権に対する有効な対案の提起を行っていたとは思えない。その意味で、やはり彼らの構想が非現実的であったと言わざるを得ないように思われる。

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2.26事件を金融・証券市場と経済の実態から考える、「日本証券史」を読む

English Abstract
"A History of Japanese Securities" illuminates the actual conditions of the financial and securities market and economy in the period of the 2.26 Incident

In the 1930s, based on the development of heavy and chemical industrialization and extensive overseas investment, the Japanese economy favorably developed and financial and securities markets continued to support this development. Regarding stock prices, the index, which set July 1928 to 100, fell sharply as a result of the Great Depression that began in 1929. However, recovery began in 1932 and the rise continued after that. Neither the ringleaders of the 2.26 Incident nor the military leaders disturbed by the rebellion could understand the actual economic conditions. Both leaders were unable to develop an appropriate counterproposal for the economic policy administration.

2.26事件から80年を契機にして、事件の研究が続々と発表されている。私も事件を改めて理解したいと思い、様々な研究を参照してみた。しかし、最も注目されている筒井清忠氏の研究を含め2.26事件の主要な研究の多くが、あまりにも当事者周辺の研究に偏りすぎていているのではないかとの疑問を抱き続けている。

そこでまず、事件の背景のひとつとなる当時の国内の金融・証券市場と経済の実態について、「日本証券史」によって考えてみたい。「日本証券史」は」有沢広巳氏が監修し、そうそうたるメンバーによって編集され執筆された、コンパクトではあるが優れた文献である。

ここで注目する「第III編 昭和期-終戦まで」での、いくつか重要な論点を紹介したい。総説(上)では、新興財閥が牽引した重化学工業化、満洲への投資の急伸(140-2)、財閥の株式公開(176-81)、軍部と財閥の和解(180-1)、企業設立ブームと景気の急速な回復(181-3)、新興財閥と公開株式会社(186-91)、満洲経営と資本市場(191-5)など、どれをとっても重要な検討と結論をみることができる。私が別のデータを基礎に検討した内容と、基本的には一致している。

これらの基本的な主張とともに、興味深い研究が含まれている。それが、まず「投信の発足」である。
1941年11月、まさに太平洋戦争が開始されようとしていた時期に、野村証券が提出した投資信託承認申請書が認可された。認可にあたって大蔵省は次のように述べている。
「本制度は株式に対する新たな固定的投資家層を開拓することにより、浮動株を減じ、株価の安定に資し、株式投資の健全化に向かって一歩進むるとともに、産業資金の流通にも役立つこととなろう。また証券の民衆化、国民貯蓄の増強にも役立ち、さらに中小投資家が危険分散的に証券投資をなし、また証券投資につき専門家的知識を利用し、かつその管理を専門家に委ね得ることとなり、多大の便益があるものと考える」(217)戦争中も好調を維持し、「三年八カ月にわたって設定総額は五億二千八百五十万円にのぼった(受益者延べ人員十五万六千人)。」(218)と言う。

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もうひとつ注目する項目が、「戦前の株価」である。
「資本主義経済は、企業の活動を中心にして動いている。その企業の成果・内容を評価する市場が株式市場であり、評価を縮約的に示すものが株価にほかならない。その意味で一国経済の動きは株価に反映される。」(240)
右の図(241)は、明治維新以降の株価指数と景気循環を一覧にしている。1930年代をみると、1930年から38年5月までは上昇局面で、株価もほぼそれと同様の動きを示している。

私の著書から引用して詳しく検討してみよう。
以下は、「日米コーポレート・ガバナンスの歴史的展開」第2章の表2.2である。
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この表からは、いくつかの重要な事実が明らかになる。第1に、左から3つめの覧に示されているように、株式時価総額/GNPは、どの時期でもほぼ100%前後で一貫して高い。この水準は戦後よりも高く、戦前の株式市場の重要性を示している。
第2に、株価であるが、1928年7月を100とする指数が1929年に始まる世界恐慌の結果として大幅に下落する。しかし、1932年には回復を始め、その後上昇を続けているのである。「日本証券史」でのデータよりも上昇は長く続いていることが示されている。

1930年代には、日本の重化学工業化の進展と海外への活発な投資によって、経済は順調に発展し、金融・証券市場はその発展を支え続けていたのである。
これまで明らかになった資料や諸研究によって、2.26事件の指導者や、その勃発に動揺した軍の首脳達のかなりの人々が、以上の経済の実態を正確に理解できておらず、経済政策において当時の政権に対して優れた対案を用意していたとはとても言えないように思われる。

次のブログでは、「2.26事件について考える」という関心の下で、国際的な金融・資本関係における当時の日本の動きについて見ていきたい。あわせてご検討いただければ幸いです。

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