2015年6月24日水曜日

20世紀は直接投資の時代、イデオロギー的な歴史教育の見直しを、

20世紀は直接投資の時代である。直接投資は19世紀の半ばにシンガーミシンの投資で始まったと言われる。その後、次第に増加し、戦間期には国際投資で最も重要な投資となった。
 第2次大戦後、政治的な独立を達成した発展途上国や社会主義国、そしてそれを支援する研究者が、直接投資を帝国主義的な搾取の手段として厳しい批判を加えた。
 しかし、1960年代以降の、直接投資の積極的な受け入れを進めたアジアの輸出工業化政策の成功によって、直接投資への評価は肯定的なものへと一変した。今では、直接投資をかつてのように否定的にとらえる国や研究者はほとんどいない。直接投資批判の急先鋒であったUNCTADですら、過去の立場は無かったかのように直接投資に関する報告書を毎年刊行している。

直接投資を簡単に定義すると企業の海外進出である。投資受け入れ企業の株式の10%を超える国際投資を直接投資とみなすが、一般的には過半数を超える場合が多く、100%出資も決して少なくない。
 直接投資の最も重要な役割は、投資元企業の経営資源を移転することである。経営資源には、生産技術から、マーケティングや経営管理のノウハウまでも含まれる。受入国からみると、これらが一体となって受け入れられるので、受入国経済や企業の発展に大きく貢献できる。
 直接投資が経営資源の移転であったからこそ、後発の発展途上国が、最先端の産業で急速な経済発展を達成できた。直接投資が一般的になった時代のアジアの発展途上国の、先進国に追いつくための時間が、直接投資が始まったころの日本に比べて、大きく短縮されたのは、この直接投資に依るところが大きい。

直接投資が発展した背景は、先進各国で市場経済と技術革新が発展し、企業間の自由な競争が激化し、より大きなビジネス・チャンスを求めて競争が国外にも拡大した結果である。経済と投資のグローバル化が、政治のグローバル化にどのように結びつくかには、様々な形態がある。経済的な結びつきが弱いまま政治的な進出が行われる場合、経済的な進出にともなって政治的な進出が行われる場合などである。

以上の検討から、20世紀は直接投資の時代と言える。それは、今では国際経済を分析する研究者のとっては常識となっている。
 ところで、最新刊の日本の歴史教科書(広い意味での)は、この時代を今でも「帝国主義」の時代ととらえている。ひとつの例を挙げると、最近刊行された『もういちど読む 山川世界現代史』(2015年)である。さすがにレーニンの帝国主義の定義はないが、レーニンの理論のひとつの下敷きとなったホブソンの帝国主義論を取り上げている。帝国主義について、ホブソンは過剰生産に求め、レーニンは経済的・政治的独占に求め、その限界や崩壊を導き出した。しかし、現実には、直接投資という「資本輸出」のグローバル経済の発展に対する重要な貢献と各国の強い期待、そして伝統的な帝国主義論との乖離はますます大きくなっている。
 次世代を担う若者への教育のためには、上記の書籍のようなイデオロギー的な歴史分析ではなく、現実に即した記述こそ今求められている。

 上記の記述については、私の『世界経済システムの展開と多国籍企業』(1998年、右上)を参照していただきたい。また、世界的に最もよく知られている研究文献の翻訳としては、ジェフリー・ジョーンズの『国際経営講義』(Geoffrey G. Jones, Multinationals and Global Capitalism From the Nineteenth to the Twenty-first Century, 2005、左上)がある。

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2015年6月1日月曜日

決して忘れてはならない天安門事件と08憲章、Tiananmen Square protests of 1989 and Língbā Xiànzhāng

6月4日は、日本人も決して忘れてはならない天安門事件があった日である。まずは以下を見ていただきたい。
NHK名作選 みのがしなつかし 天安門事件 武力鎮圧(動画)

天安門事件とは、「1989年6月3日深夜から4日早暁にかけて天安門広場で発生した「血の日曜日事件」である。・・・同年4月中旬の胡耀邦(こようほう/フーヤオパン)・元中国共産党総書記の死を悼む形で起こった民主化運動は、“最後の皇帝”として君臨しつつあったトウ小平の「人治」に対して「法治」を求める学生や市民の大衆運動であった。・・・同年5月20日には北京市に戒厳令が布告され、ついには「六・四」の武力弾圧として人民解放軍が戦車などを出動させ、学生や市民に発砲するなどして多数の死者を出した。」(中嶋嶺雄)
中嶋氏の簡潔な説明は上記の通りであるが、事件の全貌は未だに明らかにされていない。中日歴史家が明らかにしなければならない、現代中国の闇のひとつである。

天安門事件に参加した劉暁波(リュウ・シャオボー、Liú Xiǎobō)が、2008年に今後の中国を構想して起草したのが、08憲章(Língbā Xiànzhāng)である。
左の「天安門事件から「08憲章」へ」はその全文も含め、劉暁波の基本的な文献となっている。

以下は、08憲章の概要である。(同書、209-227ページ)
一 前書
二、我々の基本理念
 中国の未来の運命を決定するこの歴史の岐路に立ち、百年来の近代化の歩みを省みて、下記の基本理念を再び言明する必要がある。
 自由、人権、平等、共和、民主、憲政
三、我々の基本的主張
 これにより、我々は、責任を担う建設的な公民の精神に基づいて、国家の政治制度、公民の権利と社会発展の各方面について、以下の具体的な主張を提起するものである。
 1、憲法改正、2、分権の抑制的均衡、3、立法による民主、4、司法の独立、5、公器の公用、6、人権の保障、7、公職の選挙、8、都市と農村の平等、9、結社の自由、10、集会の自由、11、言論の自由、12、宗教の自由、13、公民教育、14、財産の保護、15、財税改革、16、社会保障、17、環境保護、18、連邦共和、19、正義の転換
四、結語
署名規則
一 本憲章は公開署名とする。
二 本名または常用のペンネームで署名し、所在地と職業を明記されたい。
署名者:303名(第一次)

ところで、日本では、中国との友好関係を重視するという立場から、中国の民主化に対する支援が著しく弱い。天安門事件の報道は少なく抑制的で、弾圧された人々への支援も非常に弱い。
さらに以下のような意見まで登場している。三浦瑠麗氏は、これまでの日本の四つの選択肢の問題点を指摘し、「沖縄をアジアの首都にするために、日本は大胆に身を切り、当該地域の主権を返上するくらいの構想力が必要・・・、沖縄の当該地域の安全と治安はアジア多国籍軍と多国籍警察に委ねてもよいでしょう。」(「日本に絶望している人のための政治入門」、p.235)
このような意見に基づけば、中国の対外支配と共産党独裁体制が拡大し、日本を中心とする東アジアの自由と民主主義を後退させることは言うまでもない。

特に、ここで指摘したいのは、彼女が現在の中国の共産党独裁が不安定で、さらに歴史的には一時期の体制であることを理解していないことである。中国に共産党支配が確立したのは1949年で、まだ非常に短期間である。その期間中にも何度も解体の危機に見舞われている。中ソ対立、文化大革命、そして天安門事件などである。
そして重要なことは、第2次世界大戦以前の中国では、共産党は一部の農村部の政権であり、都市には市場経済と自由な競争を前提とする企業が発展し、日本企業との競争と協力を発展させていたことである。

詳しくは、英語論文ではあるが、私の戦間期中国を検討した以下の論文を参照していただきたい。
Hirohiko Shimpo, Japanese Companies in East Asia: History and Prospects.
Hirohiko Shimpo, Japanese Companies and Investment in China during the Second Half of the Inter-war Period Ver.2

このような過去の経験を踏まえ、中国が08憲章をひとつの土台としたような自由と民主主義の体制、自由な市場と企業活動を確立することを支援し、アジアの自由と民主主義、自由な市場と企業活動を発展させることが、今強く求められている。

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