2014年9月7日日曜日

日本を代表する企業家、鮎川義介、Aikawa Yoshisuke

(写真は、山口県山口ブランドストーリーから)

日本を代表する企業家の一人は、左の写真の鮎川義介(あいかわよしすけ)である。

国立国会図書館には、鮎川義介関係文書(MF)(寄託)があるが、そこでの彼の紹介を要約すると次の通りである。
1880.11.6 山口生まれ。
1903.7 東京帝国大学工科大学機械科卒、
1910.6 戸畑鋳物株式会社創立、専務取締役、
1928.12 久原鉱業を改組して日本産業株式会社創始、その傘下に日産自動車、日本工業、日立製作所、日産化学等145社を置く日産コンツェルンを形成。
1937.11 日本産業株式会社満洲国に移駐。1937.12〜42.12満洲重工業株式会社総裁、
1945.12 準A級戦犯の容疑を受け巣鴨プリズンに拘置、1947.8釈放。1947.9公職追放、
1967.2.13 死去。

鮎川義介の最もユニークな構想は、「公衆持株会社」であった。それは、日本産業から満洲重工業までの経営に一貫して適用していた。公衆持株会社は、「旧資本主義を「デモクラタイズ」して公衆を基調とする大資本団を構成」しようとするものであった。これらの企業の株式は分散し、多くの株主によって支えられた。会社にとって必要な資金は、株式や社債などの発行を通じて市場から調達された。このような企業の形態は、当時の日本企業や日本の海外進出企業では一般的であった。これは、戦後に一般的になった日本的経営やメインバンク・システムとは大きく異なる。専門的な用語では、このような企業はBerle and Means type companyと呼ばれる。なお、この特徴は、満洲重工業を初めとする新興財閥に共通していた。(詳しくは、私の著書を参照してください)

満洲重工業は、南満洲鉄道とともに満洲(現在の中国東北部)を代表する企業となった。
満洲重工業の設立に当たって、満洲開発のためには、外資特にアメリカ資本の導入が不可欠と考えられていた。1937年10月に閣議決定された「満洲重工業確立要綱」には、外資導入について明確に述べられている。「五、前記諸事業の開発経営に付ては外国資本の参加を認め外国の技術設備と共に努めて外資の導入を図るものとす、右は本案の要件として特に重きを置くものとす」。市場を基礎として活動する満洲重工業は、当然資本の国籍を問わずに、必要な資本を調達しようとした。

満洲開発に外国資本の導入が不可欠であるとの彼の考えは、一貫していて、後の1941年の「日米戦争回避策」にも盛り込まれていた。要約は以下の通りである。(全文はここをクリックしてください、国会図書館によるコピーをそのまま利用しています)
1 米国は、満洲国と蒙疆での日本の至上指導権を承認する。
2 中国を門戸開放させ、従来の外国租界は全廃する。
3 中国の鉄道を一元的経営管理下に置き、この支配権を日本の手中に収める。日本は将来の事態の推移によって順次撤兵し、支配権を委譲する。
4 米国は、蒋介石政権と汪兆銘政権との提携の斡旋工作を行い、日本と協力して中国の政治的独立を完成させる。
5 満洲と接する地域をソ連より切り離し、無兵備の緩衝的中立国を形成させる。
6 南方諸領は、適宜独立国群を構成させる。
7 以上、日米間に確約成功の場合は、日本は独伊等の枢軸より手を引く。この場合日米通商条約を復活するのはもちろん、米国は50億ドルの借款に応諾する。
8 本協定に基づき、日米は新たに強力な太平洋連盟結成の中核となる。

これらの文書から、日本では太平洋戦争に突入するかどうかをめぐって直前まで激しく議論していたこと、鮎川義介をはじめ多くの企業家や政治家が日米戦争回避に動いていたことがよくわかる。
「日米戦争回避策」をはじめとする鮎川義介文書は、上記の鮎川義介関係文書(MF)(寄託)で読むことができる。
また、以上については、私の次の論文で詳しく検討している。HPに公開する予定なので、ご参照ください。

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