2017年11月23日木曜日

『北斎肉筆画の世界』

『北斎肉筆画の世界』が2017年6月に宝島社から、内藤正人氏の監修で刊行された。北斎の肉筆画をまとめて紹介するというとても興味深い試みで、そのなかには「暁の富士」「鶏竹図」などの本邦初公開の作品が含まれる。
また、本が縦29.6cm、横23.5cmのサイズなのでそれぞれの作品がとても見やすい。2ページの見開きの作品が、折り目を気にせず読めるような綴じ方が採用されていれば、なお良かったと思われる。

まず本邦初公開の一つ目の作品「暁の富士」(1843年, 84歳)である。以下に紹介する作品の中では、最も後期に属する。

詳しく見ると、点描を多用している。同書は、「あっさりした色彩ともあいまって、なかには十九世紀フランスの画家ジョルジュ・スーラを思い出す人もいるはずだ。」(同書14,ページ、以下同じ)と解説している。
北斎は周知のようにいくつも富士を描いているが、その都度新たな表現方法を試みていて、この作品はそのひとつである。

もうひとつの本邦初公開の作品が、「鶏竹図」(1804-18年, 45-59歳)である。「暁の富士」よりもずっと遡る初期の作品である。鶏と言えば若冲だが、北斎の鶏も特にその白と黒の羽根は鮮やかに細密に描かれている。
「清の沈南蘋を祖とする中国花鳥画の新風を独習した北斎の、写生風を基盤とする新鮮な作風を示す」(16)と説明されている。北斎がどのように先駆者から学んだかを示す作品である。


同書第1章は「肉筆画の衝撃」で、そこで上記2作品などが紹介されているが、第2章は「美人画こそが北斎の真髄」として、その代表作の「二美人図」(1801-04年, 42-45歳)などが紹介されている。

「立ち姿と座り姿とを対比し、すらりと伸びた遊女の体躯と奥ゆかしく足元に座る芸者の姿が調和している」(56)
私は2人の着物の柄にも注目したい。濃紺と赤、茶など鮮明な色が多彩に使われているが、描かれている文様がいくつも細かく描き分けられていて見事である。
「本作は、三葉葵の紋のついた表装であることから、徳川将軍家またはその周辺からの特別注文として制作された可能性が指摘されている。」(56)

第3章は「画狂人の超絶技巧」である。章の冒頭にあるのが、左の「鳳凰図」(1835年, 76歳)。原図は八曲一隻(せき)屏風で、横は2mもあり、ここには掲載しにくいので、中央やや左の鳳凰の顔を中心とした部分のみ掲載した。

鳳凰には長く伸びた羽毛、そのそれぞれの先端には目のようなものが付いていて、あらゆる方向に伸びている。
そして緑、青、赤などの原色で描かれた羽根を大きく拡げながら、鳳凰の目つきは鋭く前方を見つめている。

もうひとつ「鯉亀図」(1813年, 54歳)も紹介しよう。これもかなり横長なので、左の落款の部分が欠けている。
「水草と鯉の眼の部分に淡く藍色が施されているだけの、ほぼ墨の濃淡だけで描かれている作品」(82)である。
水の中を泳いでいるのか、空中を浮遊しているのか、どちらにも見える。鯉の鱗は、単色で描かれているのに身の厚みを感じさせる。そして鳳凰と同様に、鯉の目の見つめ方が柔らかいがとても鋭い。

『北斎肉筆画の世界』に掲載されている作品はあまりにも多数で、とても紹介しきれない。それらはそれぞれが異なったテーマと描き方をしていて、北斎は肉筆画でもその能力を遺憾なく発揮している。ぜひ見ていただきたい一冊である。

なお、私のブログには、「北斎晩年最大の傑作、須佐之男命厄神退治之図 No.1」もある。あわせてご覧いただければ幸いです。

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2017年11月17日金曜日

イルデパン 2017年10月

念願のニューカレドニアのイルデパン(Île des Pins, 松の島)に行きました。グランドテール島のヌメアからは飛行機で約30分。ニューカレドニア全体がとても美しい島々ですが、イルデパンは島全体がひときわ美しい。このブログには、いくつかの動画を入れてみました。動画はいったんYouTubeにuploadしてから掲載しましたが、うーん、当然ながら画質が今ひとつです。

今回とても良かったのが、宿泊したコテージがオロ(Oro)湾のすぐ近くで、湾とピッシンヌ・ナチュレール(Piscine Naturelle, 天然のプール)を結ぶ川のほとりにあり、湾と川の両方を楽しめたことだった。川は朝、湾からピッシンヌ・ナチュレールへ流れ、しばらくたつと一時水量が減るが、夕方になるとピッシンヌ・ナチュレールから湾に流れる。水の流れの音だけではなく、周囲の森からは絶えず風の音と、様々な鳥の声が聞こえる。


東海岸にあるオロ湾とは反対の、西海岸に位置するのが、クト(Kouto)湾カヌメラ(Kanumera)湾。すぐ隣り合わせだが、どちらもイルデパンの深く透明な海のすばらしさがとてもよくわかる。座って海を眺めていると、すっかり時を忘れてしまう。
左の写真はカヌメラ湾だが、真っ青な海と、水に沈んだ白い木々が対照的である。

下は、カヌメラ湾のすぐ近くのクト湾である。延々と続く白い砂浜、強い日差し、そしてもちろん真っ青な海、この日はとても風が強かったので、動画には風の音、波の音、そして鳥の声が聞こえる。


下は、改めてイルデパン島の最も有名で、この島を訪れた人が必ず向かうピッシンヌ・ナチュレールの動画である。名前の通り自然にできたプールで、浅いので多くの人が泳いだり潜ったりしている。昼になると観光客も増え、水量が減るので、朝早い時間に出かけ、静かなピッシンヌ・ナチュレールを思う存分楽しんだ。
途中、どこからともなく黒い犬が現れ、ピッシンヌ・ナチュレールはこっちだよと言うかのように導いてくれた。とても不思議な体験だった。

  

今度は、ピッシンヌ・ナチュレールから反対方向を見た動画である。こちらの方向で見ると、オロ湾に向かって流れる澄み切った川と高い松がとても美しい。


最後に、グランドテール島のヌメアにあるニューカレドニア博物館に出かけた。ここでは、ニューカレドニアの歴史と文化が学べる。
たまたま、小学生の見学ツァーと遭遇、日本語でお互いに挨拶した。とても人なつこいこども達だった。

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2017年9月17日日曜日

「並河靖之 七宝展 明治七宝の誘惑-透明な黒の感性」(伊丹市立美術館)

伊丹市立美術館で9月9日から「並河靖之 七宝展 明治七宝の誘惑-透明な黒の感性」が開催されている。展覧会では、以下の大部の図録が販売され、これによって並河靖之の作品群全体がよく理解でき、展覧会の魅力がいちだんとわかりやすくなっている。

なお、並河靖之自身といくつかの主要作品については、以前の私のブログ「日本の工芸:七宝、並河靖之、Shippo, Yasuyuki Namikawa」をあわせてご参照ください。

左図は図録の表紙である。
「本図録は、平成29年1月14日から12月25日まで、東京都庭園美術館、伊丹市立美術館、パラミタミュージアムで開催される「並河靖之七宝」展の共通図録である。」
そのため、248ページからなり、多数の鮮明な画像とともに、詳しい論説や説明が掲載されており、並河靖之の一連の作品を理解するために必須の書籍になっていると思われる。

図録と共に、作品の画像が掲載されている多数の葉書等が販売されているが、右はそのうちの1枚「藤草花文花瓶」である。花瓶の正面と上部から撮った写真が上下に掲載され、作品の細部がよく理解できる、すばらしい1枚となっている。花瓶は明治後期の作品で、図録には38番として掲載されている。

並河靖之の代表的な作品として取り上げられる「四季花鳥図花瓶 」は、図録では正面と左図の背面、そしてそれぞれの詳細画像が掲載されている。その超絶技巧には改めて驚かされる。

この作品は、1899年に完成し、現在宮内庁三の丸尚蔵館に所蔵されている。(正面画像は、上記私のブログを参照してください)




並河靖之のもうひとつの代表作が、今回出品された「桜蝶図平皿」(明治中期の作品、図録では33番、やはり、実物画像は上記の私のブログをご参照ください)である。
 「桜蝶図平皿」の背景は緑色であるが、同じような構図で、背景がピンク色になっているのが、右の「桜蝶文皿」(『七宝』INAXギャラリーより)である。どちらも桜が周りに一面に咲き誇り、中央には羽根をいっぱいに拡げた蝶が舞っている。

今回の展覧会では、これらを含め、作品の下図が多数公開され、作品の制作過程がよく理解できるようになっていることも特色である。

今回の図録は、「並河七宝のはじまり」「挫折と発展一万国博覧会」「並河工場画部一下図」「明治七宝の系譜」「円熟一文様の先へ」「到達一表現のあくなき追求」の6章からなり、年代順に作品が紹介されている。「並河七宝のはじまり」の初期の作品も注目されるが、最後期の「円熟一文様の先へ」「到達一表現のあくなき追求」での作品の変化もとても興味深い。

「明治22年(1889)のパリ万国博覧会で大きな成功を収めた並河は、同年開催された第三回内国勧業博覧会の報告でも妙技一等賞牌を受賞して評価を得ている。しかし、同時に意匠についての指摘がなされており、出品作について「鳳凰唐草でなければ蝶烏の古風な模様を用いており、画風の変化が乏しいこと」から「技量があるのだから、今後進んで考案を極めるべき」と更なる意匠改良を勧められているのである。」(「円熟一文様の先へ」)

並河はこの評価を受け入れて、晩年に至るまで様々な試みを行っているが、その成果のひとつが左上図の「蝶に竹花図四方花瓶」である。「器体全体に文様を張り巡らせるのではなく余白が生まれ、さらに場面を区切るように設けられていた枠が取り払われ、器体をーつの場面とする・・・」ようになったという。(上に同じ)

ところで、この展覧会を開催された伊丹市立美術館は日本庭園にも接し、また美術館周辺には酒蔵などもあり、展覧会とともに十分に楽しめる。ぜひ見に行かれることをおすすめしたい。

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2017年8月21日月曜日

「真の日本の友」グルー駐日大使の『滞日十年』(2)

前回に引き続き今回は、グルー駐日大使による、日米開戦回避に向けての試み、日本降伏の際の日本の立場を尊重した講和条件作成に当たっての貴重な努力を、グルーの著作を通じて紹介しておきたい。言うまでもなく、これらの努力によって、グルーは「真の日本の友」(廣部泉『グルー』の副題)としての評価を幅広く受けている。

駐日大使の国務長官宛報告
『滞日十年』には、開戦直前の1941年9月29日の、グルー駐日大使の国務長官宛報告が掲載されている。
グルーは、1941年7月に第三次内閣を組織した近衛首相との会談を通じ、近衛首相とルーズベルト大統領の会談を持つことで、日米間の緊張を解き、両国の戦争を避けられることを確信し、会談の開催をルーズベルト大統領らに直接訴えた。
「慎重に考えた結果、もし予備会談の線に添う取極めが、提唱された両国首班の会見によってなされるならば、最小限度極東の状況がこれ以上悪化することを防ぎ、恐らくは確実に建設的な成果をおさめうるかも知れぬ本質的な希望があると信じるにいたった。」(『滞日十年』下、236)
しかし、残念ながら結局ルーズベルト大統領は会談に応じず、近衛首相は退陣し、日米開戦に向けた動きが急速に強まる。

グルーの一貫した立場:「建設的な和解」
ところで、グルーは上記の文書で、外交官としての彼の立場をこう強調している。「米国はその目的にとりつくのに、経済上の抑圧を累進的に行うか、いわゆる「宥和」(appeasement)ではない積極的融和方式(constructive conciliation)をとるか、この二つの一つを選ぶ立場に直面することをつけ加える。」(236, 原語はKindle版原書による)
翌30日に、「今や私が主張するのは「宥和」(appeasement)ではなく、「建設的な協和」(constructive conciliation)である。」(246)と繰り返している。訳書では同じ用語について異なった訳語が使われているが、私はこの重要な用語conciliationを、共に和解と訳すのが適当だと思う。


第2次世界大戦終戦後の構想
日米が開戦するとグルーは帰国し、1944年には国務次官に就任した。
独日の敗戦がいよいよ確実になる過程で、大戦終了後の世界をどう統治するかについて激しい議論が連合国内部で行われるようになってきた。
独日との戦争終了後、ソビエト・ロシアとの対立と戦争が確実に起こることを予想し、1945年5月19日にグルーはこう書いた。
「サンフランシスコ会議終了後すぐに、我々の対ソ政策は全線にわたって、ただちに硬化すべきである」(TE, 1446)
戦後、事態はグルーが危惧した通りに進展し、ルーズベルト大統領が推進した米ソ協力は一転、冷戦に変わり、その対立の枠組みは今に続いている。

対日声明案(1945年5月28日)
ドイツ降伏後、日本との講和条件を決めるため、アメリカ及び連合国内で様々な議論が行われたが、グルーは対日声明案に以下の様な内容を含むべきであると、新たに就任したトルーマン大統領に進言した。
「(12)これらの目的が達成され、日本人を代表する疑いも無く平和的で責任ある政府が創設されるならすぐに、連合国の占領軍は日本から撤退する。もし、そのような政府が日本での侵略的な軍国主義の将来的な発展を不可能にする平和的な政策に従うという本当の決意を、平和愛好国が信じることができるなら、現在の皇室のもとでの立憲君主制を含むかもしれない」(TE, 1433)
結局この案は採用されなかったが、日米開戦回避の努力と共に、グル-がいかに日本の政治と社会の実情をよく理解しているかを示している。

2回のブログで紹介した、グル-の『滞日十年』は、終戦後72年のこの夏に、第2次世界大戦と現在の世界を考えるために、多くの人が読んでいただきたい書籍である。

あわせて、第2次世界大戦を見直す大著『裏切られた自由(フーバー大統領回顧録)』邦訳刊行迫る (2017.8.6)をはじめとする『裏切られた自由(フーバー大統領回顧録)』関連の私のブログを読んでいただければ幸いです。


2017年8月20日日曜日

「真の日本の友」グルー駐日大使の『滞日十年』(1)

第2次世界大戦についての様々な資料の公刊を通じて、その評価の見直しの機運も徐々に高まっているが、その過程で日米開戦回避の動きに重要な役割を果たしたグルー駐日大使(Joseph Clark Grew, 1880-1965、駐日大使は1932-1941)の活動に注目が再び集まってきた。本ブログでは、『滞日十年』(Ten Years In Japan)を中心とするグルーの文献を、2回に分けて紹介したい。

まず、『滞日十年』の目次は次の通りである。
上巻
第一章 日本を覆う暗殺者の影(一九三二年五月十四日一九三三年二月十五日)、第二章 嵐に先立つ平穏の三年間(一九三三年二月二十日ー一九三六年二月十一日)、第三章 早産的革命から公然たる戦争へ(一九三六年二月二十六日ー一九三七年四月十八日)、第四章 「支那事変」(一九三七年七月八日ー一九三九年五月十五日)

下巻
第五章 一つの世界と二つの戦争(一九三九年十月十日ー一九四一年十二月七日)、第六章 一つの世界と一つの戦争(一九四一年十二月八日ー一九四二年五月三十一日)

目次からわかるように、記事は1942年で終わっており、また記述は様々な配慮の元で書かれているので、次の文献で補うことも必要になる。"Turbulent Era : A Diplomatic Record of Forty Years, 1904-1945"(以下ではTEと略す、次のブログに表紙を掲載)

ところで、刊行されていない日記などについては、Joseph Clark Grew papersというタイトルで、Houghton Library, Harvard Libraryに所蔵されているようである。(Grew, Joseph C. (Joseph Clark), 1880-1965. Joseph Clark Grew papers: Guide., Houghton Library, Harvard Library, Harvard University)
現在の私の能力と立場では、これらの資料をとても参照できないので、廣部泉氏の『グルーー真の日本の友ー』を、そのまま参照させていただいた。以下では、年代順に、グルーの重要な発言や記述を紹介していきたい。(廣部泉氏の著作は、グルーの考えや行動を理解するための最新の貴重な文献である)

ルーズベルト大統領の隔離(quarantine, 検疫(『滞日十年』上の訳, p.358)演説
各国間の緊張が高まり、国内ではニューディール政策に限界が見えてきた1937年10月5日、ルーズベルトは隔離演説と呼ばれる有名な演説を行った。「身体の疫病の流行が拡がり出したら、共同体は疾病の拡がりから共同体の健康を守るため、患者を隔離することを認めている。」(TE,1161)この演説を一つの重要な契機として、ルーズベルトは日本についてはより強硬に対応するようになる。
これに対し、グルーは「我々の基本的かつ根本的考えは、極東の混乱に巻き込まれるのを避けることである。そして、我々は直接巻き込まれるかもしれない道を選んでしまった」と述べている。(日記、廣部p.105)
グルーはこのように嘆いたが、グルーこそがアメリカの伝統的な外交政策の立場を表明していた。

日本、枢軸国をさけて航行する、
日米間の緊張が高まり、米ソ間の接近がいっそう深まりつつある1939年5月15日に、グルーは、日米間について次の様な重要な指摘を行い、『滞日十年』第四章を締めくくっている。
「ゆえに日本が将来を見透して、自分の友情をどこにおいたら一番利益であるかを決める
のが至当である。・・・。経済、財政、商業、感情のどの点から見ても合衆国は、もし日本が米国と同様につき合うならば、世界中のどの国よりも日本のよい友人であり得るのだ。どの点から見ても日米戦争は、まさに愚の骨頂である」(『滞日十年』上、454)
私も以前に発表した研究『日米コーポレート・ガバナンスの歴史的展開』で主張したように、日米は経済と企業の構造において共通点が多く、満洲などでも共同開発が模索されていた。グルーはその点を正確にとらえていたのである。

ソ連の脅威
同じ年の12月31日に、グルーは先の指摘と一対の、戦後世界を見通す重要な政治的な予言を残している。これらの認識と見通しはその後のグルーの活動を支えている。
「我々がいま入らんとしている十年間について何か政治的予言をするなら、その十年が終わる前に我々は英仏独日が共同してソヴィエトと戦っているのをみるだろうというものになるだろう」(日記、廣部p.128)

次回のブログでは、第2次大戦直前と、終戦直前のグルーの最も注目すべき活動を紹介する。

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2017年8月9日水曜日

フーバー大統領『裏切られた自由』での、中国と朝鮮、『フーバー大統領回顧録』紹介(3)

フーバー大統領の『裏切られた自由』には、中国と朝鮮に関する興味深い記述がある。藤井厳喜他『日米戦争を起こしたのは誰か ルーズベルトの罪状・フーバー大統領回顧録を論ず』(2016年1月刊)と、渡辺惣樹『誰が第二次世界大戦を起こしたのか: フーバー大統領『裏切られた自由』を読み解く』(2017年7月刊)によって紹介しておこう。

これまでの3回のブログでまとめたように、ルーズベルトのアメリカはスターリンのソ連との事実上の同盟関係にあったが、中国においては国共合作を受け入れた蒋介石との協力関係を深めることで、間接的に中国共産党を支援した。ルーズベルトによる共産主義体制との連携と協調は、世界的な規模で進められたのである。それは、日本撤退の後、弱体化した蒋介石政権に代わって中国共産党が全中国を支配する道を開いた。

フーバーは、『裏切られた自由』のDOCUMENT 18 "A Review of Lost Statesmanship--19 Times in 7 Years”で、中国について次のように述べている。
「トルーマン、マーシャルとアチソンが中国に関して、政治の大道を見失ったのが第一八番目の誤ちである。ルーズベルトは、蒋介石が共産党と協力することにこだわって、中国に関する裏切りの秘密協定がヤルタでできた。その結果モンゴルと、事実上満州をロシアに手渡すことになった。トルーマンは全中国を共産主義者の手に委ねてしまった。それはトルーマンの左翼の側近の根強い影響の為である。・・・
そしてとどのつまりは、四億五〇〇〇万ものアジアの人々を、モスクワ傘下の共産主義の傀儡政権の手に委ねる事になってしまった。」(藤井厳喜他:128-9, フーバー:882)

また、フーバーは以前訪問した朝鮮について、Section III The Case History of Korea, Introductionで以下のように述べている。戦後七〇年経っても、学術的な意義のある論証や論争を抜きにして、韓国は日本の統治に批判を続けている。しかし、この文書からも、イザベラ・バードやエッカートが紹介した事実を改めて確認できるだろう。

「当時の朝鮮の状況には心が痛んだ。人々は栄養不足だった。身に着けるものも少なく、家屋も家具も粗末だった。衛生状態も悪く、汚穢が国全体を覆っていた。悪路ばかりで、通信手段もほとんどなく、教育施設もなかった。山にはほとんど木がなかった。盗賊が跋扈し、秩序はなかった。
日本の支配による三五年間で、朝鮮の生活は革命的に改善した(revolutionalized)。日本はまず最も重要な、秩序を持ち込んだ。港湾施設、鉄道、通信施設、公共施設そして民家も改良された。衛生状況もよくなり、農業もよりよい耕作方法が導入された。北部朝鮮には大型の肥料工場が建設され、その結果、人々の食糧事情はそれなりのレベルに到達した。日本は、禿げ山に植林した。教育を一般に広げ、国民の技能を上げた。汚れた衣服はしだいに明るい色の清潔なものに替わっていった。」(渡辺惣樹:170, フーバー:737)

以上のように、『裏切られた自由』は第2次世界大戦の前後の時期についての様々な事実を明らかにしている。これを機会に、ぜひ『裏切られた自由』そのものの検討へと進んでいただきたいと思う。

『裏切られた自由』についての私の冒頭のブログ
第2次世界大戦を見直す大著『裏切られた自由(フーバー大統領回顧録)』邦訳刊行迫る (2017.8.6)

戦前の朝鮮に関する記事については、以下の私のブログもご参照ください。
イザベラ・バード『朝鮮紀行』を読む (2)、Isabella Bird Bishop, Korea And Her Neighbours (2013.9.1)
イザベラ・バード『朝鮮紀行』を読む (1)、Isabella Bird Bishop, Korea And Her Neighbours (2013.9.1)
その時期での日本の経済的な影響については、以下の私のブログもご参照ください。
エッカート『日本帝国の申し子』、Carter J. Eckert, Offspring of Empire (2014.1.4)

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2017年8月8日火曜日

渡辺惣樹『誰が第二次世界大戦を起こしたのか』、『フーバー大統領回顧録』紹介(2)

『裏切られた自由(フーバー大統領回顧録)』(Freedom Betrayed)を紹介した第2の書籍は、『裏切られた自由』の翻訳者である渡辺惣樹氏の『誰が第二次世界大戦を起こしたのか: フーバー大統領『裏切られた自由』を読み解く』(2017年7月刊)である。同書は基本的に『裏切られた自由』の順序に沿って論じている。

目次は次の通り。
一章 ハーバート・フーバーの生い立ち、
二章 『裏切られた自由」を読み解く その一:共産主義の拡散とヨーロッパ大陸の情勢、
三章 『裏切られた自由』を読み解く その二:チェンバレンの「世紀の過ち」とルーズベルトの干渉、
四章 『裏切られた自由」を読み解く その三:ルーズベルトの戦争準備、
五章 連合国首脳は何を協議したのか

以下では、主にフーバー大統領の重要な主張を、章の順序にそって紹介していきたい。この書で、渡辺氏は『裏切られた自由』を詳しく紹介するとともに、ハミルトン・フィッシュの『ルーズベルトの開戦責任』などの関連する重要な文献を紹介している。これらにも注目していただきたい。

二章 
フーバーの基本的な立場
「(ナチス体制を嫌うアメリカ国民は、民主主義国に同情するだろうが)アメリカはヨーロッパの問題を解決できないことを肝に銘ずるべきだ。我が国ができることは、あくまで局外にいて、アメリカの活力と軍事力を温存することである。その力を必ずや訪れるはずの和平の時期に使うべきである。それこそが我が国の世界への貢献のあり方である」(W:44, 107, Editor's Introduction:xxxii)
フーバーは、ルーズベルトの失敗の始まりは共産国家ソビエトの承認であったとしている。この政策の採用には、大統領の周辺と政府組織に入った多くの共産主義者やその同調者が大きな影響を与えているという。

四章
武器貸与法と戦争準備
この法律(武器貸与法、1941年3月)で大統領は開戦権限まで持つことになり、議会は追認するだけの機関になり下がる。このままでは我が国そのものが国家社会主義国家に変貌し、ルーズベルト自身が独裁者となる。」(W:120, Editor's Introduction:l、Wは渡辺氏の著作でのページ数、Hは”Freedom Betrayed”でのページ数、以下同じ)
この法律によって、アメリカはソ連に対しイギリスに次ぐ額の武器を支援した。
「国民も議会も我が国の参戦に強く反対であった。したがって大勢をひっくり返して参戦を可能にするのは、ドイツあるいは日本による我が国に対する明白な反米行為(some overt act against us)だけであった。ワシントンの政権上層部にも同じように考える者がいた。彼らは事態をその方向に進めようとした。つまり我が国を攻撃させるように仕向けることを狙ったのである。」(W:129, H:247)
こうして、着々と日独に対する戦争の準備が進められた。

日米開戦への最終局面での交渉と、フーバーの和平への期待
駐日大使グルーの本省宛ての報告書を、フーバーは詳しく紹介している。「(近衛首相は)現今の日本の国内情勢を鑑みれば、大統領との会談を一刻の遅滞もなく、できるだけ早い時期に実現したいと考えています。近衛首相は、両国間のすべての懸案は、その会談で両者が満足できる処理が可能になるとの強い信念を持っています。」(W:139, H:271)
結局ルーズベルトは会談に応じず、近衛首相は失脚した。
近衛の失脚は二十世紀最大の悲劇の一つとなった。彼が日本の軍国主義者の動きを何とか牽制しようとしていたことは賞賛に値する。彼は何とか和平を実現したいと願い、そのためには自身の命を犠牲にすることも厭わなかったのである。」(W:143, H:277)

五章
ヤルタ会談と秘密協定、原爆投下について、ルーズベルト批判
フーバーは、ニューヨーク・ワールド・テレグラフ紙を引用した。「合衆国はジャップとの戦いに参加させるために、ロシアを賄賂(領土上の不当な要求:新保補足)で釣るようなことをしてしまった。まったく不要なことであった。こんな意味のない賄賂が、これまでにあっただろうか」(W:201, H:693)
この賄賂がロシアの軍事的進出を促し、今なお日本を苦しめている。
「アメリカ人の多くが、この発表がポツダム会談の三カ月前になされていれば、数千のアメリカ兵の命が救われていたと思っている。また数千もの女性や子供あるいは民間人を殺戮した爆弾も投下されなかったと考えるのである。」(W:212, H:565)
前のブログで紹介した、藤井厳喜他『日米戦争を起こしたのは誰か』が紹介したように、フーバーは別の箇所で原爆の投下に明確に反対している。

なお、"Freedom Betrayed"のDOCUMENT 18 "A Review of Lost Statesmanship--19 Times in 7 Years” 1953, pp.875-883については渡辺氏の著作では取り上げられていない。藤井厳喜他と以下の私のブログを参照していただきたい。

<関連するブログ>
第2次世界大戦を見直す大著『裏切られた自由(フーバー大統領回顧録)』邦訳刊行迫る (2017.8.6)
藤井厳喜他『日米戦争を起こしたのは誰か』、『フーバー大統領回顧録』紹介(1) (2017.8.7)

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