2016年4月30日土曜日

「特別展 明治有田 超絶の美、The Compelling Beauty of Arita Ceramics」に行ってきました

兵庫陶芸美術館では、特別展 明治有田 超絶の美-万国博覧会の時代-、The Compelling Beauty of Arita Ceramics in the Age of the Great International Expositionsが開かれ、その図録として、左の書が刊行されている。

図録にも書かれているように、「有田の磁器生産は1610年代の創始以来、400年の輝かしい歴史を有している。・・・17世紀末には柿右衛門様式が完成し、18世紀初頭には古伊万里金襴手様式や鍋島藩窯様式が確立した。・・・次に大きな変化が見られるのは、19世紀後半の幕末・明治である。」(同書p.6、以下括弧内は本書ページ数)

私は以前のブログ、「「IMARI/伊万里 ヨーロッパの宮殿を飾った日本磁器」を見る、IMARI/ Japanese Porcelain」で、大阪市立東洋陶磁美術館で開かれた、特別展「IMARI/伊万里 ヨーロッパの宮殿を飾った日本磁器」を紹介したが、その後の有田・伊万里の動きを知る機会として、今回の展覧会はとても貴重である。

本書は以下の4部に分かれ、208ページのほぼ全ページに多数の図版と詳しい解説が掲載されていてとても楽しく読める。
I 万国博覧会と有田、II 「香蘭社」の分離と「精磁会社」の誕生、III 華やかな明治有田のデザイン、IV 近代有田の発展である。

Iの万国博覧会と有田を代表する作品が右の「染付蒔絵富士山御所車文大花瓶」(1873(明治6)年)である。1873(明治6)年のウィーン万国博覧会は、日本政府が公式に参加した最初の万博である。そこに出展された作品である。

「明治の有田焼の花瓶の中では最大高。全面に染付で富士山や龍文を描〈が、その上からさらに蒔絵で桜、反対面に松を描く、桜と松の部分は剝離防止のため無釉地に漆塗りしているが、他の漆文様は染付釉上に施している。」(34)

高さは台まで入れると2m以上になるという。陶芸館に入ってまずその大きさと豪華さに圧倒させられる作品である。


IIの時期を代表する作品が「香蘭社 色絵有職文耳付大壺」(1875(明治8)年~1880年代)である。
1879(明治12)年、精磁会社と分離したのを機に、深川栄左衛門は香蘭合名会社を設立した。そこでの作品である。

「胴を巡るように帯状の凹凸が設けられ、段ごとに異なる文様が精緻に描き込まれる。 濃く鮮やかな青の占める面積が多〈、微細な文様の輪郭を一つずつ金彩で丁寧に囲んでいることから、金属線で象った文様に色ガラスを流し込む有線七宝のように見える。」(61)

有線七宝については、このブログでも同じ明治期の並河靖之を、「日本の工芸:七宝、並河靖之、Shippo, Yasuyuki Namikawa」で紹介したが、当時の技術の高さをともに示している。

左の図をクリックして拡大して見ていただきたい。上記の説明の通り、気の遠くなる作業によって、見事に細かく描きこまれている。陶芸館では全面を見られるので、一回りして見てみるとさらにその見事さに驚いてしまう。

同じくIIの時期の作品が、右の「精磁会社 色絵鳳凰花唐草文透彫大香炉」(1879(明治12)年~1897(明治30)年頃)である。
精磁会社は、1879(明治12)年に、手塚亀之助、辻勝蔵、深海墨之助らが香蘭社から分離独立して設立した会社である。精磁会社には、当時の有田の最高技術を持つメンバーが集結した。

「豪華絢欄な装飾が施された高さ1mに及ぶ大香炉。最新の顔料などを駆使し、窓絵の鳳凰や花喰烏などが描き込まれた綿密な吉祥文様には、当時の技術者たちの意気込みが感じられる。」(84)

なお、八代深川栄左衛門の次男、深川忠次は、・・・1894(明治27)年に独立し、深川製磁を設立。有田を代表する窯元として現在に至っている。
1911(明治44)年には企業形態を陶磁器会社としては珍しかった株式会社とし、深川製磁株式会社となる。これも当時の有田の先進的な試みとして注目したい。

最後に、IVの時期を代表する作品が、「香蘭社 染付精磁陽刻雲鶴文耳付大花瓶」(1910(明治43)年~1920年代)である。

「香蘭社に図案が存在し、製品が鍋島家に伝わる貴重な作例。全面に陽刻で雲鶴文が施され、首部に家紋である杏葉紋をあしらった唐草文の文様帯が一周する。」(179)

全体の色調が青と白になり、これまでの金色をふんだんに使ったものから一変する。先に紹介した深川製磁の製品は「フカガワブルー」と呼ばれて欧米でとても人気であったと言われるが、この香蘭社の製品にも同じ特徴が見られる。
このブルーを背景にした中央の白の鶴が際だって美しい。

以上のように、明治期の有田は、外国の技術や経営形態を積極的に取り入れ、また海外市場に大胆に進出することで、飛躍的な発展を遂げた。
この事例は、その後の日本の工業化に引き継がれただけではなく、現代の日本にも求められる課題を指し示してと思われる。

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2016年4月7日木曜日

2.26事件を含む『昭和天皇実録 第七』が刊行される、An Official Record of the Emperor Showa Vol. 7

「新保博彦のブログ」に英語のAbstractを付けます。過去のブログにもさかのぼる予定です。
2016年4月16日現在、最新の5つのブログに付けています。

English Abstract
Publication of "An Official Record of the Emperor Showa Vol. 7" including the 2.26 Incident 

This 908-page volume includes the important period before the Pacific War from 1936 to 1939. One of the key sections is the record related to the 2.26 Incident. According to this record, since the beginning, the Emperor Showa's intention for the 2.26 Incident to "suppress immediately" is clear and consistent. In contrast, military leaders were uneasy about the incident ringleaders' demands and action, and were unable to take unanimous action in response to the 2.26 Incident. This lack of consistent military leadership and disagreement predicts the start of war, its prolongation and the confusion at the end of the war.

『昭和天皇実録 第七』が刊行された。この巻は908ページから成り、1936年から1939年の太平洋戦争突入前の重要な時期を含んでいる。その最も重要な内容のひとつが、2.26事件に関するものである。その主な部分は、同書29ページから47ページまでである。

内容としては、『本庄日記』『木戸幸一日記』がすでに刊行されていて、予想された通りであるが、改めて事件と天皇の考えと行動を理解することができる貴重な資料となっている。価格も安いので、ぜひ多くの人が読まれることを期待したい。

以下では、昭和天皇の以下の2つの重要な発言を取り上げたい。なお、これ以外に重要な内容としては、「陸軍大臣の辞表に対する御不満」(p.34、以下括弧内数字はページ数)もあるが、ここでは省略する。

2月26日
侍従武官長拝謁、
午前七時十分、侍従武官長本庄繁に謁を賜い、事件発生につき恐懼に堪えない旨の言上を受けられる。これに対し、事件の早期終息を以て禍を転じて福となすべき旨の御言葉を述べられる。また、かつて武官長が斯様の事態に至る憂慮を言上したことにつき触れられる。以後、頻繁に武官長をお召しになり、事件の成り行きを御下問になり、事件鎮圧の督促を行われる。御格子までの間、武官長の拝謁は十四回に及ぶ。」(30、赤字は新保による)

朝日新聞東京版 1936年2月27日号外
(出所:聞蔵IIビジュアル)
クリックしてご覧ください
2月27日
股肱の老臣殺傷を御難詰
なおこの日、天皇は武官長に対し、自らが最も信頼する老臣を殺傷することは真綿にて我が首を絞めるに等しい行為である旨の御言葉を漏らされる。また、御自ら暴徒鎮定に当たる御意志を示される。翌二十八日にも同様の御意志を示される。(36)

この件について侍従武官長本庄繁は日記にこう記している。
「廿七日拝謁の折り、暴徒にして軍統帥部の命令に聴従せずば、朕自ら出動すべしと屡々繰り返され、其後二十八日も亦、朕自ら近衛師団を率ひて現地に臨まんと仰せられ、其都度左様な恐れ多きことに及ばずと御諌止申上ぐ。其当時陛下には、声涙共に下る御気色にて、早く鎮定する様伝へ呉れと仰せらる。真に断腸の想ありたり。」(『本庄日記』、235)

2月28日
陸軍大臣の時局収拾案に逆鱗
午後、侍従武官長本庄繁に謁を賜い、陸軍大臣川島義之・陸軍省軍事調査部長山下奉文より、首謀者一同は自決して罪を謝し、下士以下は原隊に復させる故、自決に際して勅使を賜わりたい旨の申し出があったことにつき、言上を受けられる。これに対し、非常な御不満を示され御叱責になる。ついで、第一師団長堀丈夫が部下の兵を以て部下の兵を討ち難いと発言している旨の言上を受けられる。これに対し、自らの責任を解さないものとして厳責され、直ちに鎮定すベく厳達するよう命じられる。」(40)

同じく『本庄日記』にはこう書かれている。
「陛下ニハ、非常ナル御不満ニテ、自殺スルナラパ勝手ニ為スベク、此ノ如キモノニ勅使杯、以テノ外ナリト仰セラレ、又、師団長ガ積極的ニ出ヅル能ハズトスルハ、自ラノ責任ヲ解セザルモノナリト、未ダ嘗テ拝セザル御気色ニテ、厳責アラセラレ、直チニ鎮定スベク厳達セヨト厳命ヲ蒙ル。」(278)

私の『昭和天皇独白録』のブログで示したように、昭和天皇は、田中内閣辞職事件以来、立憲君主制の立場を強く意識され、内閣の決定に対して反対する事は無くなった。これへの例外が、2.26事件に対する発言であり、終戦の聖断であった。

『独白録』にはこう書いてある。
「私は田中内閣の苦い経験があるので、事をなすには必ず輔弼の者の進言に俟ち又その進言に逆はぬ事にしたが、この時と終戦の時との二回丈けは積極的に自分の考を実行させた。」(38)

以上のように2.26事件に対する昭和天皇の考えは当初からきわめて明解で揺らいでいない。これに対して軍首脳は、事件首謀者達の要求と行動の前に動揺し、また首脳間で一致した行動を取れないでいた。軍首脳の見解の一貫さの無さと不一致、それは後に戦争の開始とその長期化、収拾時の混乱を予測させるものであった。
それだけではなく、事件首謀者や軍首脳が、当時の日本の経済や、国際的な環境について十分な理解があったとは言えないことについては、すでに、直前のブログ(「2.26事件を国際金融・資本関係から考える、三谷太一郎「ウォール・ストリートと極東」を読む」、「2.26事件を金融・証券市場と経済の実態から考える、「日本証券史」を読む」)で論じた通りである。

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