2015年12月21日月曜日

SSDを128GBから256GBに取り替える、このような単純な作業がWindows 8.1はできない

私が使っているPCのシステムが入っているCドライブのSSDの容量(128GB)が小さくなってきたので、256GBに取り替えたが、システムの復元がなかなかうまくいかなかった。そこで、その過程を以下で報告し参考にしていただきたい。今やSSDはPCの動作を速くするためには必須であり、この間価格もようやく下がってきたので、同じことを考えている人は少なくないと思う。

私のPCの状態は次の通り:Windows8.1(購入時には8だったがupgradeしている)、64ビット。

まず当然ながらWindows 8.1でシステムイメージを作成しドライブを復元する方法を試みた。
「コントロールパネル\システムとセキュリティ\ファイル履歴」で、システムイメージバックアップを行った。問題はこのときに、Microsoftは、このイメージを使って復元を行う際にどのような制約があるかを明らかにすべきであった。私は何も制約がないと思い、これを使って、入れ替えた容量の大きなSSDにシステムを復元した。その結果動作はしたが、以下の図(拡大して見れます)のようになり、Cドライブの容量を増加させることはできなかった。
Cドライブは元のサイズのままで、右から2つめの回復パーティションを挟んで、134GBもの未割り当て領域ができてしまっていた。これをCドライブと結合する方法をいろいろと試みたができなかった。

私自身の能力では無理かなと思って、Microsoft Communityに質問した。そのやりとりは、クリックしてご覧ください。

結局、解決策は見つからなかったので、MicrosoftのAnswer Deskに電話で問い合わせしたが、結局できないという返事だった。
できないなら、システムイメージバックアップを行う条件を明示すべきではないかと言ったが、適切な回答は無かった。Microsoft社にクレームの処理をして欲しいと言ったが、アメリカ本社に伝えますとのことだけだった。ITの巨人Microsoftの対応はこの程度のものかと本当にがっかりした。

Windowsを使ってのシステムイメージの作成と復元はあきらめ、「LB イメージバックアップ11 Pro」を購入して試みた。いくつか問題はあったが、Cドライブの拡張はうまくいき、今のところ問題なく作動している。
この程度の機能をWindowsが持っていない、サポートもまったく貧弱、問題発生後の対応もお粗末で、世界のPCの基本ソフトで高いシェアを誇るMicrosoftのもうひとつの側面を見せつけられた感じがした。巨額の利益を得ているのだから、その利益の一部をソフトウェアの改善、サポートの充実に振り向けて欲しいと思う。それこそが顧客志向なのではないか。

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2015年11月6日金曜日

ヴェネツィアと、ヴェネツィア展(名古屋ボストン美術館)に行ってきました。Venezia

ヴェネツィアに行ってきました。実はルネッサンス絵画を楽しむために、ヴェネツィアに入る前に、フィレンツェにも行ってきたのですが、以下のヴェネツィアの風景に圧倒されて、私の中ではフィレンツェがすっかり影が薄くなってしまいました。しかし、専門家の間では、フィレンツェは世界で第4位のすばらしい観光都市です。(月刊100万部を誇る旅行雑誌Travel+Leisureによる)


ヴェネツィアの中心地はやはりサンマルコ広場、これは夜の写真である。広場は一日中世界の観光客で夜遅くまで埋め尽くされていいる。
この広場を中心に政治を行ったヴェネツィア共和国は、伝説では421年に建国され、697年に最初の国家元首が選出され、1797年にナポレオンに滅ぼされるまで続いた。東地中海貿易を基盤にした海洋国家である。
国のあり方など日本も学ぶところの多い歴史的な国家である。


サンマルコからの対岸にはすばらしい景色が眺められる。まず左は、サンタ・マリア・デッラ・サルーテ聖堂(1687年)である。

「大運河(カナル・グランデ)の入り口に建つ。水上からサン・マルコ広場への目印。1630~31年頃に共和国の守護者聖母マリアに捧げるために建設された。設計は口ンゲーナだが、聖堂が完成したのは彼の死から5年後のこと。ヴェネツィア・パロック様式最大の傑作。」(塩野七生・宮下規久朗『ヴェネツィア物語』、p.36)
この聖堂をを対岸に見ながら、波の音を聞きながらの食事はすばらしい。海には、ボートが浮かび、「イタリアで最も写真におさめられる場所となっている」と言う。

もう一方では、右の写真のように、サン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂(1610年)が美しく眺められる。
「本島にもっとも近い対岸の島にあり、その名を冠した聖堂は、アンドレア・パラーディオの傑作として名高い。1565~1610年にかけて建造され、礼拝堂の正面と静謐な内部空間は、古代ローマの古典儀式を取り入れている。鐘楼に登ると町とラグーナの全景が一望できる。」(上記書、同ページ)

そして今やヴェネツィアを最も有名にしている、ヴェネツィアン・ガラスの拠点、ムラーノ島がある。
左の写真は、ムラーノ島の工房で、短時間のデモンストレーションで馬を作っているところ。これをみてすっかりヴェネツィアン・ガラスにとりつかれてしまい、ある小さな作品を購入したが、その結果幸運なことにおまけにこの馬をいただくことになった。
この工房を初め多数の作家が、新たな製品にチャレンジしている。



最後に楽しんだのが、フェニーチェ劇場だった。意外にも建物はそれほど大きくはなかった。

公演はプッチーニのトスカ、音楽は、Riccardo Frizza、トスカはSvetlana Kasyanだった。本場のオペラには、ヨーロッパ各国だけではなく、日本やアメリカからも多くの観客を得ていた。

このようにヴェネツィアはすばらしい世界的な観光都市である。しかし、サービスという点では、接客が良いとは必ずしも言えず、レストランの価格も円安という条件を考慮しても全般的に高く、観光客にやさしいとは言えないように思われた。

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帰国後。名古屋のボストン美術館でヴェネツィア展が行われていたので行ってきた。副題「魅惑の都市の500年」にふさわしい多様な作品が集められていた。ただ、ヴェネツィア派の画家であるティツィアーノ、ティントレット、ヴェロネーゼの作品が多数集められたということではないのが少し残念だった。

その代わり、モネの晩年の作品ヴェネツィアの運河(1908年)が展覧会を華やかにしていた。印象派のモネが、光あふれるヴェネツィアを描く最もふさわしい画家の一人だということを示す作品だと思われた。



そして、もう1点、展覧会の中でも特に目を引いたのが、右の作品、リーノ・タリアピエトラのガラス作品である。画像では見にくいかもしれないが、実に細い線の加工がガラス器全体にわたって施されていて、ヴェネツィア・ガラスの新たな世代の作品を楽しむことができる。これ以外には、彼のWeb siteで、すばらしい作品群が見られる。

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2015年10月15日木曜日

四国大学経営情報学部創設時メンバー4名が再会、2015年10月、Shikoku University

10月14日、四国大学経営情報学部創設時の4名が再び大阪に集まった。
残念ながら、逆光でやや見にくくなってしまったが、中央左が、田中先生、右端が竹内先生、中央右が澤江先生、左が新保である。
(写真はクリックしていただくと大きくなります)
昨年4月に同じメンバーで集まったので、1年半ぶりの再会である。
昨年もそうだったが、何よりも驚いたのは、86歳の田中先生、83歳の竹内先生が、昨年と全く変わらずお元気だったことである。耳が遠く鳴られて大きな声を出さないといけないということもなく、話の内容が混乱していたり、繰り返しであると言うこともなかった。
田中先生は、今でも時には自転車で各地を訪問されておられるが、なかでも東日本大震災の被災地を回られた経験を詳しくお話しになられた。ご友人とはオリンピックまでがんばろうと声を掛け合っているとのことだった。
竹内先生は、四国大学と甲子園大学で講義されていた内容を今どのように深められているかを熱心に語られた。ご専門の内容を詳しくわかりやすく、熱く語られる話しぶりは全く変わっておられない。なお、竹内先生の教え子の太田隼介さんのブログに竹内先生が書かれています。
本会の今年の圧巻は、わざわざ岡山から参加していただいた澤江先生のクラシック・ギターの演奏だった。大学生の頃から始められ、今ではハーモニカの演奏者とともに老人ホームを訪問されたり、大学祭で演奏されたりと活躍されているとのことである。

そして、四国大学創設時の佐藤久子理事長(四国大学の歴史のページへリンク)、当時の斉藤晴男学長(Wikipediaの情報へリンク)、経営情報学部の今居謹吾教授(教授のAmazonの著書のページへリンク)等の、私達を指導していただき、すでに故人となられた方々、また、創設時の多くの学生達を懐かしく思い出した。
おそらく、四国大学は地方の大学として、入学者の確保と教育に大変な苦労をされていると思い、今後のいっそうの発展を、全員で大阪から応援しようということで会は終了した。

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2015年10月5日月曜日

Japanese Companies in East Asia: History and Prospects: Expanded and Revised Second Edition が刊行されました。

退職してから約半年、この期間の主な仕事だった、Japanese Companies in East Asia: History and Prospects: Expanded and Revised Second Edition が、ようやくAmazon.comで販売できるようになった。 (Paperback, October 2, 2015)
Expanded and Revised Second Editionなので、ページ数は342と大幅に増加した。

目次は以下の通りである。
Part 1 Prewar Global Economic System and Economic
Interdependence between Japan and China
Chapter 1 Foreign Direct Investment in the Inter-war Period and Japanese Investment in China
Chapter 2 Trade and the Balance of Payments in Japan and China in the Prewar Global Economic System

Part 2 Japanese Companies and Collaboration in East Asia
in the Inter-war Period
Chapter 3 Japanese Companies and Investment in China during the Second Half of the Inter-war Period
Chapter 4 Collaboration between Japanese and Korean Companies in the Inter-war Period
Chapter 5 Japanese Investment and Collaboration in Manchuria

Part 3 Current Economic and Business Competition and Alliance among Japan, China, Taiwan and ASEAN
Chapter 6 Global Infrastructure Investment, Competition, and the Japanese Companies
Chapter 7 The Rapid Growth of Chinese Companies, and the Institutional Investor Role
Chapter 8 Business Alliances between Japanese and Taiwanese Companies
Chapter 9 Nikkei ASEAN 100 Companies and their Future

各章のうち。赤字で示した章は、今回の増補改訂版で新たに追加した章である。なお、初版からは2つの章を削除したので、かなり大幅な改訂版となった。

この増補改訂によって、以下の点が明らかになったと思われる。第1に、戦前日本企業のコーポレート・ガバナンスが、国内・海外の企業ともに市場中心型であること、そのことによって積極的な海外進出が可能になったこと。
第2に、この投資によって、投資受入国である、満州を含む中国や朝鮮に、企業組織そのものや企業の経営資源の移転を進めた。この投資の推進に当たっては、現地受入国の企業や人々とのCollaborationが広範囲に実施されたこと。

現代においては、グローバル企業は言うまでもなく、日本企業においても、一段と市場中心型コーポレート・ガバナンスが発展しているとともに、海外投資がより大規模になっていること。
現代では、日本企業と現地国企業のCollaborationは、より対等で広範囲なBusiness Allianceへと発展している。特に、日本企業の相対的な地位の低下とともに、その傾向はいちだんと強まっていることなどである。

HPとこのブログで、順次日本語での要約も掲載する予定ですが、ぜひともAmazon.comで現物をLook Insideしていただいた上で、読んでいただけましたら幸いです。
なお、これからKindle版の作成に取り組んでいく予定である。

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2015年7月21日火曜日

第二次大戦に勝者なし ウェデマイヤー(Wedemeyer,Albert C.)回想録

前回のブログに引き続き、第二次世界大戦を考える最も重要な書籍のひとつとして、『第二次世界大戦に勝者無しーウェデマイヤー回想録』を紹介したい。

まず、ウェデマイヤー(Albert C. Wedemeyer)将軍の略歴は、同書に依れば以下の通りである。
「1897年米国ネプラスカ州生まれ。1919年ウェスト・ポイント陸軍士官学校卒業。36年陸軍大学卒業。独陸大留学後参謀本部勤務、連合軍東南アジア副司令官、中国戦線米軍総司令官兼蒋介石付参謀長を歴任して51年退役。53年予備役名簿で陸軍大将に進級。89年12月没。」(奥付)

ウェデマイヤー将軍は、「第1章 第二次大戦前奏曲」でこのように述べている。「ルーズベルトは、ドイツに対米宣戦させようとした極端な挑発行動も失敗し、アメリカ国民の大多数の参戦反対の決意も固く、アメリカ議会で宣戦布告の同意が得られる見通しもなかったので、彼は目を太平洋に転じた。・・・。アメリカは、日本が面白をつぶさない限り現に保持している地点から撤退できない、という妥協の余地のまったくない提案を日本側におしつけた。」(上、p.40)これが第2次世界大戦の引き金になったという。すでに紹介したハミルトン・フィッシュと同じ見解であり、同じ事実認識であった。
この点については、第二十七章「第二次大戦に勝者なし(二)」で再び詳細に説明している。

そして、彼は日本の真珠湾攻撃を誘導したルーズベルト大統領に対して、次のように批判している。「最後に、連合国側の過失のうちの最大のものは、同盟国であるソ連の戦後に対する意図を正しく判断できなかったことである。ルーズベルト大統領は、一九四四年三月八日、こう述べている。「余としては、ソ連はまったく友好的であると考える。ソ連はヨーロッパの残りの地域を全部むさぼり取ろうとはしていない。ソ連は他国を支配するような考えは少しも持っていない。」」(下、p.372)戦後すぐのソ連、そして現在のロシアを見れば、ただちに明らかになるが、何という根拠の無い主張だろうか。そのように考えるようになったのは、「「ルーズベルトは、第四期の大統領任期なかばにもうろくする以前でさえも、陰謀家どもや共産主義に対しては腰ぬけのインテリたちにとりかこまれていた。」(下、p.273)からだと言う。

from Amazon.com
ウェデマイヤー将軍が厳しく批判したもう一人が、ルーズベルトを支えたマーシャル将軍である。
「私は、マーシャル将軍が中国に対する彼の基本的な過失、つまり、国民政府と共産主義者は勢力争いする二つの党派にすぎないという考え方と、蒋介石に共産主義者との妥協を強要するため、一九四六年から四七年にかげて、中国に対する武器、弾薬の補給を全面的に禁止した過失、の二点を認めるならば、いまでも将軍をこの時代の偉大な人物のひとりとして尊敬する。しかし将軍は、国民政府に対し共産主義者への譲歩を強要するという、まちがった対中国政策を決して改めなかった。」(下、p.283)
ルーズベルトがソ連との同盟を最重要視したのと同様に、マーシャル将軍は中国国民党に共産党との妥協を強要し、結果として、共産主義の支配が中国から全アジアに拡大し、大規模な東西冷戦と朝鮮戦争のような本格的な戦争を生み出したのである。このように、ウェデマイヤー将軍の批判は、ルーズベルト体制全体に及んでいる。

一方で、彼は上記の通り、ドイツで学んだ時期があったが、ドイツに対しての批判は抑制的である。「ドイツがもっとも侵略的な国家で、たび重なる平和の破壊者であるという世間の想像は誤っている、ということを確かめるには、たいして歴史を研究する必要はない。地図を一見すれば、イギリスやフランスが平和愛好国であったかどうかはすぐわかることだ。もし英仏が平和的であったならば、どうして地球上のあんなに広大な地域を統治することができるようになったか、ひとつ彼らにたずねてみようではないか。」(上、p.48)
フィッシュは政治家として伝統的なアメリカの価値観から、ウェデマイヤー将軍は職業軍人としてルーズベルト体制を厳しく批判した。戦後70年経ち、フィッシュやウェデマイヤー将軍のような見解が、改めて広く紹介され、第二次世界大戦が何であったのかを詳しく検討し直す必要があるだろう。

なお、ウェデマイヤー将軍が、終戦時に、中国大陸にいた三百九十万の日本軍将兵と在留邦人の早期内地送還について、大いに尽力されたことについては付記しておく必要がある。

この著作には、研究文献としては必須の詳しい索引が付いている。できれば、高齢化社会に適応できるように、本のサイズを大きくすることや、電子版(原書にはKindle版がある)を出す等が今後試みられることを期待したい。

関連する主要なブログハミルトン・フィッシュ(Fish, Hamilton)の『ルーズベルトの開戦責任』、・フーバー大統領『裏切られた自由』での、中国と朝鮮、『フーバー大統領回顧録』紹介(3)

関連する論文:・『論文・書評集 戦間期日米関係: 経済・企業システムの共通性と相互依存』論文集フーヴァーの思想と経済・外交政策 論文、書評「フーバー大統領回顧録『裏切られた自由』を読む:日本にかんする叙述を中心にして 論文

2015年7月17日金曜日

ハミルトン・フィッシュ(Fish, Hamilton)の『ルーズベルトの開戦責任』

今年は戦後70年、注目すべき文献が次々と刊行されている。

ハミルトン・フィッシュ(Fish, Hamilton)『ルーズベルトの開戦責任 -大統領が最も恐れた男の証言』(FDR : the other side of the coin : how we were tricked into World War II)は、きわめて重要な事実を明らかにしている。できるだけ翻訳原文を詳しく紹介したい。

まず、書籍が簡潔にまとめたフィッシュの略歴である。
「1888-1991年。ニューヨークのオランダ系WASP(通称ニッカーボッカー)の名門に生まれる。祖父はグラント大統領政権で国務長官をつとめ、父は下院議員に選出された政治家一家。ハーバード大学卒業後、1914年、ニューヨーク州議会議員となる。第1次大戦では黒人部隊を指揮して戦う。帰還後の20年、下院議員に選出(~ 45年)。共和党の重鎮として、また伝統的な非干渉主義の立場から第2次大戦への参戦に反対するも、対日最後通牒(ハル・ノート)の存在を隠して対日参戦を訴えたルーズベルトに同調する議会演説を行なう。後にこれを深く後悔、戦後は一貫してルーズベルトの、ニューディール政策に代表される議会を軽視した国内政治手法とスターリンに宥和的な外交を批判し、大統領の開戦責任を追及した。」(表紙)

本書では、ルーズベルトによる経済への国家介入を拡大するニューディール政策が実際には効果が無かったことが示され、またその経済政策と一体である共産主義ソ連への宥和政策が厳しく批判され、これらの政策がアメリカの伝統である経済活動の自由を脅かし、外交での不干渉主義に反することが明解に主張される。彼の主張は、アメリカの伝統的な政策を最も明解に受け継いでいるだけでなく、現在改めて見直されている内容であることがわかる。
そして、日米間についての彼の主張は、第15章のタイトルにつきる。「アメリカ参戦までの道のり:隠された対日最後通牒、国民も議会も、日本に「最後通牒」(ハル・ノート)が発せられていることを知らなかった。」周知のように、ハル・ノートは日本にとって非常に過酷な条件でとうてい受け入れることはできなかった。

日本外交文書デジタルアーカイブ日米交渉―1941年―下巻による、ハル・ノートの主な箇所は以下の通りである。
(一)日米英「ソ」蘭支泰国間ノ相互不可侵条約締結、(二)日米英蘭支泰国間ノ仏印不可侵並ニ仏印ニ於ケル経済上ノ均等待遇ニ対スル協定取極、(三)支那及全仏印ヨリノ日本軍ノ全面撤兵、(四)日米両国ニ於テ支那ニ於ケル蒋政権以外ノ政権ヲ支持セサル確約、(五)支那ニ於ケル治外法権及租界ノ撤廃、(六)最恵国待遇ヲ基礎トスル日米間互恵通商条約締結、(七)日米相互凍結令解除、(八)円「ドル」為替安定、(九)日米両国カ第三国トノ間ニ締結セル如何ナル協定モ本件協定及太平洋平和維持ノ目的ニ反スルモノト解セラレサルヘキコトヲ約ス(三国協定骨抜キ案)
なお、この文書の画像版の一部は右上参照(原文はdjvuファイル)

ところで、フィッシュの日本についての評価を見ておこう。
「日本はわが国との戦いを避けるためには、ほとんど何でもするというような外交姿勢をとっていた。・・・近衛(文麿)首相は和平を希求していた。ワシントンへでもホノルルへでも出かけて行ってFDRと直接交渉することを望んでいた。わが国の要求に妥協し、戦いを避けるための暫定協定を結びたいと考えていた。しかしルーズベルトは近衛との会見を拒否し続けた。日本に戦争を仕掛けさせたかったのである。そうすることで対独戦争を可能にしたかった。」(p.208)
「日本は小さな国である。人口は八千万ほどで、その国土はカリフォルニア州にも満たない大ききである。日本は天然資源が乏しく、その上、つねにソビエトの脅威に晒されていた。天皇は道義心にあふれていた(a man of honor)。そして平和を希求していた。」(p.209)
経済活動の自由を擁護し、反共産主義の立場に立つフィッシュは、アメリカと同様の共産主義の脅威に晒されていた日本の立場を良く理解していたのである。彼はソ連だけではなく、中国における共産党の脅威も的確に把握し、国共合作に対しても厳しく批判していた。

フィッシュの主張を補強するとして、フィッシュが紹介した重要な文献を挙げてみる。
ロパート・A・セオボールド(Theobald, Robert A.)海軍准将(退役)はその著書『真珠湾最後の秘密(The final Secret of Pearl Harbor)』(日本語訳:真珠湾の審判)の中で真珠湾攻撃について詳述しているが、彼は戦争を始めたのはFDRであると明言している。真珠湾を無防備のままにしたこと。二人の真珠湾の司令官に解読された日本の暗号に基づいた真珠湾攻撃の可能性を知らせなかったこと。FDRは日本の暗号文書の中に真珠湾におけるアメリカ艦隊の配置情報があると知っていたこと。日本を挑発した最後通牒(ハル・ノート)に対する日本の回答内容を知っていたこと。そうしたことを総合的に判断すればFDRの責任は明白である。」(p.229)

我が国では、今なお第2次世界大戦の責任を我が国とその指導部にのみ求めようとする見解が根強い。戦後70年の今年は、そのような一面的な見解を見直す重要な契機になることを期待したい。そのために本書は欠かせない書籍である。

<関連する私のブログ>
第二次大戦に勝者なし ウェデマイヤー(Wedemeyer,Albert C.)回想録 (2015.7.21)

第2次世界大戦を見直す大著『裏切られた自由(フーバー大統領回顧録)』邦訳刊行迫る (2017.8.6) 
藤井厳喜他『日米戦争を起こしたのは誰か』、『フーバー大統領回顧録』紹介(1)  (2017.8.7)

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2015年6月24日水曜日

20世紀は直接投資の時代、イデオロギー的な歴史教育の見直しを、

20世紀は直接投資の時代である。直接投資は19世紀の半ばにシンガーミシンの投資で始まったと言われる。その後、次第に増加し、戦間期には国際投資で最も重要な投資となった。
 第2次大戦後、政治的な独立を達成した発展途上国や社会主義国、そしてそれを支援する研究者が、直接投資を帝国主義的な搾取の手段として厳しい批判を加えた。
 しかし、1960年代以降の、直接投資の積極的な受け入れを進めたアジアの輸出工業化政策の成功によって、直接投資への評価は肯定的なものへと一変した。今では、直接投資をかつてのように否定的にとらえる国や研究者はほとんどいない。直接投資批判の急先鋒であったUNCTADですら、過去の立場は無かったかのように直接投資に関する報告書を毎年刊行している。

直接投資を簡単に定義すると企業の海外進出である。投資受け入れ企業の株式の10%を超える国際投資を直接投資とみなすが、一般的には過半数を超える場合が多く、100%出資も決して少なくない。
 直接投資の最も重要な役割は、投資元企業の経営資源を移転することである。経営資源には、生産技術から、マーケティングや経営管理のノウハウまでも含まれる。受入国からみると、これらが一体となって受け入れられるので、受入国経済や企業の発展に大きく貢献できる。
 直接投資が経営資源の移転であったからこそ、後発の発展途上国が、最先端の産業で急速な経済発展を達成できた。直接投資が一般的になった時代のアジアの発展途上国の、先進国に追いつくための時間が、直接投資が始まったころの日本に比べて、大きく短縮されたのは、この直接投資に依るところが大きい。

直接投資が発展した背景は、先進各国で市場経済と技術革新が発展し、企業間の自由な競争が激化し、より大きなビジネス・チャンスを求めて競争が国外にも拡大した結果である。経済と投資のグローバル化が、政治のグローバル化にどのように結びつくかには、様々な形態がある。経済的な結びつきが弱いまま政治的な進出が行われる場合、経済的な進出にともなって政治的な進出が行われる場合などである。

以上の検討から、20世紀は直接投資の時代と言える。それは、今では国際経済を分析する研究者のとっては常識となっている。
 ところで、最新刊の日本の歴史教科書(広い意味での)は、この時代を今でも「帝国主義」の時代ととらえている。ひとつの例を挙げると、最近刊行された『もういちど読む 山川世界現代史』(2015年)である。さすがにレーニンの帝国主義の定義はないが、レーニンの理論のひとつの下敷きとなったホブソンの帝国主義論を取り上げている。帝国主義について、ホブソンは過剰生産に求め、レーニンは経済的・政治的独占に求め、その限界や崩壊を導き出した。しかし、現実には、直接投資という「資本輸出」のグローバル経済の発展に対する重要な貢献と各国の強い期待、そして伝統的な帝国主義論との乖離はますます大きくなっている。
 次世代を担う若者への教育のためには、上記の書籍のようなイデオロギー的な歴史分析ではなく、現実に即した記述こそ今求められている。

 上記の記述については、私の『世界経済システムの展開と多国籍企業』(1998年、右上)を参照していただきたい。また、世界的に最もよく知られている研究文献の翻訳としては、ジェフリー・ジョーンズの『国際経営講義』(Geoffrey G. Jones, Multinationals and Global Capitalism From the Nineteenth to the Twenty-first Century, 2005、左上)がある。

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2015年6月1日月曜日

決して忘れてはならない天安門事件と08憲章、Tiananmen Square protests of 1989 and Língbā Xiànzhāng

6月4日は、日本人も決して忘れてはならない天安門事件があった日である。まずは以下を見ていただきたい。
NHK名作選 みのがしなつかし 天安門事件 武力鎮圧(動画)

天安門事件とは、「1989年6月3日深夜から4日早暁にかけて天安門広場で発生した「血の日曜日事件」である。・・・同年4月中旬の胡耀邦(こようほう/フーヤオパン)・元中国共産党総書記の死を悼む形で起こった民主化運動は、“最後の皇帝”として君臨しつつあったトウ小平の「人治」に対して「法治」を求める学生や市民の大衆運動であった。・・・同年5月20日には北京市に戒厳令が布告され、ついには「六・四」の武力弾圧として人民解放軍が戦車などを出動させ、学生や市民に発砲するなどして多数の死者を出した。」(中嶋嶺雄)
中嶋氏の簡潔な説明は上記の通りであるが、事件の全貌は未だに明らかにされていない。中日歴史家が明らかにしなければならない、現代中国の闇のひとつである。

天安門事件に参加した劉暁波(リュウ・シャオボー、Liú Xiǎobō)が、2008年に今後の中国を構想して起草したのが、08憲章(Língbā Xiànzhāng)である。
左の「天安門事件から「08憲章」へ」はその全文も含め、劉暁波の基本的な文献となっている。

以下は、08憲章の概要である。(同書、209-227ページ)
一 前書
二、我々の基本理念
 中国の未来の運命を決定するこの歴史の岐路に立ち、百年来の近代化の歩みを省みて、下記の基本理念を再び言明する必要がある。
 自由、人権、平等、共和、民主、憲政
三、我々の基本的主張
 これにより、我々は、責任を担う建設的な公民の精神に基づいて、国家の政治制度、公民の権利と社会発展の各方面について、以下の具体的な主張を提起するものである。
 1、憲法改正、2、分権の抑制的均衡、3、立法による民主、4、司法の独立、5、公器の公用、6、人権の保障、7、公職の選挙、8、都市と農村の平等、9、結社の自由、10、集会の自由、11、言論の自由、12、宗教の自由、13、公民教育、14、財産の保護、15、財税改革、16、社会保障、17、環境保護、18、連邦共和、19、正義の転換
四、結語
署名規則
一 本憲章は公開署名とする。
二 本名または常用のペンネームで署名し、所在地と職業を明記されたい。
署名者:303名(第一次)

ところで、日本では、中国との友好関係を重視するという立場から、中国の民主化に対する支援が著しく弱い。天安門事件の報道は少なく抑制的で、弾圧された人々への支援も非常に弱い。
さらに以下のような意見まで登場している。三浦瑠麗氏は、これまでの日本の四つの選択肢の問題点を指摘し、「沖縄をアジアの首都にするために、日本は大胆に身を切り、当該地域の主権を返上するくらいの構想力が必要・・・、沖縄の当該地域の安全と治安はアジア多国籍軍と多国籍警察に委ねてもよいでしょう。」(「日本に絶望している人のための政治入門」、p.235)
このような意見に基づけば、中国の対外支配と共産党独裁体制が拡大し、日本を中心とする東アジアの自由と民主主義を後退させることは言うまでもない。

特に、ここで指摘したいのは、彼女が現在の中国の共産党独裁が不安定で、さらに歴史的には一時期の体制であることを理解していないことである。中国に共産党支配が確立したのは1949年で、まだ非常に短期間である。その期間中にも何度も解体の危機に見舞われている。中ソ対立、文化大革命、そして天安門事件などである。
そして重要なことは、第2次世界大戦以前の中国では、共産党は一部の農村部の政権であり、都市には市場経済と自由な競争を前提とする企業が発展し、日本企業との競争と協力を発展させていたことである。

詳しくは、英語論文ではあるが、私の戦間期中国を検討した以下の論文を参照していただきたい。
Hirohiko Shimpo, Japanese Companies in East Asia: History and Prospects.
Hirohiko Shimpo, Japanese Companies and Investment in China during the Second Half of the Inter-war Period Ver.2

このような過去の経験を踏まえ、中国が08憲章をひとつの土台としたような自由と民主主義の体制、自由な市場と企業活動を確立することを支援し、アジアの自由と民主主義、自由な市場と企業活動を発展させることが、今強く求められている。

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2015年5月6日水曜日

鷹峯の庭園(しょうざんリゾート京都)、Japanese Garden in Takagamine

しょうざんリゾート京都に行ってきた。しょうざんリゾート京都と言っても、利用したのはそのごく一部、「京都洛北の鷹ケ峯三山を背景に広がる三万五千坪の美しい庭」である。
左はその入口。

なぜか、京都の最も有名な観光地の一つとはなっていないので、訪れる人もそれほど多くはなく、静かに散歩が楽しめる。

(ブログ内の写真はクリックすると、すべて拡大できます)
訪れたのは4月の末、庭園全体が、青紅葉を中心に緑で埋め尽くされていた。

「「しょうざん」の建設は、昭和26年にさかのぼる。 ここは、西陣に生まれ、戦後いちはやくウールお召しを開発して世に広めた創設者、故・松山政雄が思い描いた「花と緑の観光工場」。 京の山々を借景に、さらに手をほどこした三万五千坪の庭園。またそこに、戦後消失の運命にあった美しい日本の建造物を移築し、広く万人におとずれてもらい公開を始めたのが「しょうざん」の始まり」だと言う。

入ってまず目に入るのが、上の玉庵である。「京都紫野大徳寺10代管長・清涼室歡渓紹忻老師の命名の茶室で、昭和39年に当地へ移築」されたという。

続いて、左の峰玉亭である。
「全国から撰りすぐりの材料と大工・左官などの職人衆を集め、昭和37年から約3年を費やして完成させた「しょうざんJ の迎賓館」である。

これら以外にもすばらしい建物がいくつもある。
この庭園の最もすばらしいのは、自然の小さな川が流れていることである。川は庭園内をいくつも流れている。川の向こうには、小さな滝があり、水はそこから流れ落ちてくる。

ここにたたずんで川の流れに耳を傾けると、ほんとうに心が落ち着く。
ぜひもう一度来て、川の流れを数分間でも動画で撮っておきたいと思う。

紅葉の季節に来れば、庭園全体が真っ赤に染まってさぞかし美しいに違いない。

庭園の入口に事務所があり、そこで、庭園に通った運転手さんの撮った写真があるが、燃えるような庭園を写していてすばらしい。
最後に、ぜひ見てほしい作品である。


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2015年4月6日月曜日

ピケティの『21世紀の資本』と、森口千晶氏の論文、Prof. Thomas Piketty and Prof. Chiaki Moriguchi


ピケティ『21世紀の資本』が専門家以外の人も含む多くの人々によって読まれ、様々な議論を呼び起こしている。
ピケティの研究の最も大きな意義は、これまで使われてこなかった多くの国の税務統計にもとづいて、各国の格差の歴史的な変化を明らかにしたことである。その意味で、新たな研究分野を切り開いたといえるだろう。
また、研究成果をすべてWeb上に公開するという方法を採っていることも画期的で、ますます活発な議論が行われるだろう。
『21世紀の資本』トマ・ピケティ
The World Top Incomes Database

ところで、ピケティとともにこの研究を推進してきたカリフォルニア大学バークレー校のエマニュエル・サエズ教授と一橋大学の森口千晶教授は、同じ方法に基づいて日本についてその実情を明らかにした。下の図の通りである。日米「上位0.1%」の高額所得者による所得占有率が、1940年頃までは日米でともに高く、1980年代半ばまではともに低かったが、それ以降、アメリカは急上昇し、日本はそれほど大きな上昇は見せていないことが明らかにされた。

森口氏は、「以上のデータは、日本の高成長は戦前には「格差社会」、戦後には「平等社会」のなかで実現したことを明確に示す。・・・日本の経済システムは戦前と戦後で全く異なるものだったとする多くの先行研究と優れて整合的である。」と述べている。(表も含めて、日本経済新聞、2015/2/11)

これを言い換えると、戦前は市場中心型社会であり、戦後はメインバンク・システムと日本的経営と言うことになるだろう。以上の事実をも明らかにした、この研究の意義は非常に大きい。
戦前の市場中心型社会では、金融資本市場が著しく発達し、企業は市場から資金を調達し、個人は資金を市場で運用していた。市場を利用できた個人は、高額の金融所得を得ていた。
一方、戦後になると市場の役割が後退し、銀行が市場に代わってその役割を果たすメインバンク・システムが確立した。企業はメインバンクから資金を調達し、個人は銀行に預金した。上記の図は、このような経済システムの変化を反映している。

残念ながら、このような評価は、まだ我が国では、森口氏が言うように多くの研究が受け入れているとは思えない。戦後のメインバンク・システムが戦前の財閥に起源を持つかのような主張は今なお根強い。私は、戦前の日本の経済システムが市場中心型であると考えているが、同時に戦前の日本の企業は市場中心型コーポレート・ガバナンスであった。当時、市場中心型とは異なる財閥は有力ではあったが、支配的ではなかった。
森口氏は、「明治・大正期の経済発展のダイナミズムは、(1)資産家(商工業者・地主)による財閥系大企業への資本投下・・・」と述べているが、企業経営者をはじめとする多様な資産家による金融市場を通じた有力企業への投資と述べた方が適切である。

このように、森口氏の研究は、日本の格差について歴史的に明らかにしただけではなく、日本の経済システムの重要な変化について貴重な問題提起を行っている。
なお、戦後の変化については、改めて論じたい。

森口氏の研究については以下も参照していただきたい。
Chiaki Moriguchi and Emmanuel Saez, THE EVOLUTION OF INCOME CONCENTRATION IN JAPAN, 1886–2005: EVIDENCE FROM INCOME TAX STATISTICS.

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2015年3月31日火曜日

新しいWebsiteを公開しました。 New website is established

新しいWebsiteを公開しました。URLはhttps://sites.google.com/site/hshimpo/です。日本語版と英語版があります。まだ、情報は限られていますが、これから少しずつ充実させていきたいと思います。よろしくお願いいたします。

これまで作成してきたWebsiteの歴史は以下の通りでした。
1)私がホーム・ページをはじめて作成したのは、1999年6月です。最初のホーム・ページは、非常にシンプルなものでした。
2)2001年には現行日本語版の基礎となる、フレームをもつページを作成しました。
3)2003年9月には、現行日本語版を作成しました。
4)2004年12月には、私のOfficial Web Siteを、http://www.hshimpo.com/に移動し、できるだけ英語と日本語のページを同じような比重にするように、大幅に改訂しました。

それは大阪産業大学内における公式Websiteとしての役割を果たしてくれました。約16年間続けてきたことになります。当初は教員のWebsiteは少なく、有意義であったと思っています。今なお、大学教員のWebsiteが決して多くはないことはとても残念です。

退職にあたり、上記の全く新しいサイトを立ち上げ、退職後の活動を掲載したいと思っています。
新しいWebsiteは、Google Siteで作成しました。私のBlogはGoogle Blogで作成していますが、とても使いやすく、広告がまったく無いので読みやすいと思っています。
新しいWebsiteを、旧来のhtmlで作成するか、最近よく使われるWordPressで作成するかとても迷いましたが、思い切ってGoogle Siteを使うことにしました。これは、Siteを美しく飾る、多様な表示をするのは難しいですが、Googleの他の機能と親和性が高く、使いやすいと判断しました。

なお、新しいWebsiteの開設と共に、誤りの修正を除いて、旧Siteはそのままの形で残しておきたいと思います。あわせてよろしくお願いいたします。


2015年3月28日土曜日

大阪産業大学(経済学部)を定年退職しました。研究室を飾っていたクメール美術, Angkor Vat and A Millennium of Khmer Art

2015年3月、新保博彦は、18年間勤務した大阪産業大学(経済学部)を定年退職しました。
在職中には、大阪産業大学の教職員をはじめ多くの方々のご指導とご支援で、研究や教育はもちろん、様々な分野で仕事をさせていただきました。この場をお借りして、皆様方に心からお礼申し上げます。
なお、これまで続けてきた研究は、これからも継続していきたいと思います。

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ところで、18年間研究室の正面に掲げていた、左のポスターを改めて見直した。
これは、1998年1月から3月まで大阪市立美術館で行われた、「アンコールワットとクメール美術の1000年展」(Angkor Vat and A Millennium of Khmer Art)のポスターである。大阪産業大学に移って1年目のことなので、18年間ずっと見続けてきたポスターである。

ジャヤヴァルマン7世頭部(Head of Jayavarman VII)、12世紀末ー13世紀初頭、プノンペン国立博物館
「この像は,チャンパを撃退しクメールの版図を最大に広げたジャヤヴァルマン7世の肖像と考えられている。・・・また王は敬度な仏教徒で、仏教信仰に根ざした治世を行った。」と言われている。(下記書籍、p.148)
右下に紹介するその美術展の書籍には、この像以外にもジャヤヴアルマン7世の像はあるが、私にはこの像がとても印象深く感じられる。何よりも、じっと眼を閉じて深く黙想する姿が、仏教の精神に最もふさわしく思える。現代に生きる私達にも何が求められているかを伝えているかのようである。
私には忘れられない像なので、4月1日に開設する新しいWebsiteにも掲げたい。

右が、「アンコールワットとクメール美術の1000年展」のための書籍である。そこには展覧会で展示された多数の像等の多数の写真が掲載されていて、非常に興味深い。古書店でも安価で出回っているので、ぜひご参照ください。


いくつか代表的な作品を紹介していこう。

左:デーヴァター(女神) :「若き日のアンドレ・マルローが,この女神の浮彫を壁面から剥ぎ取って盗み出そうとしたことで一躍有名になった。・・・不思議な微笑みを浮かべた表情は「東洋のモナリザ」という愛称にふさわしい。」(上記書籍、冒頭のカラーのページ)


右:ドゥルガー(Durga)、プレアンコール期、7世紀前半、プノンペン国立博物館
「ドゥルガーはシヴァの神妃で、とりわけ水牛の魔神マヒシャを殺す女神として知られる。」「美しく豊満な身体を誇るこの女神は、サンボール・プレイ・クック様式の最も代表的な」作品として知られる。
(上記書籍、p.66) 最も早い時期の作品だが、その技術の高さに驚かされる。



最後に紹介するのが、ポスターのジャヤヴアルマン7世頭部の同時期に作られた、女尊(Bodhisattva as a Female Figure)、12世紀末ー13世紀初頭、ギメ国立東洋美術館である。

「クメールでは王を神仏と同体とするデーヴァラージャ(神王)信仰が行われたが、王族や貴紳たちも死後神仏と一体となることを願い、自分や親族を神仏の姿で表した像を寺院に奉納した。ジャヤヴァルマン7世が建立したアンコールのプレア・カンから発見されたこの像もそのような信仰に基づき、王の最初の妃で、若くして亡くなったジャヤラージャデーヴィーを女尊になぞらえて、いわば彼女の肖像として造像したものとする説がある。」(上記書籍、p.150)


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アジアの社会とアジアの美術の歴史を理解するのには、東南アジアに栄えた、1000年にわたるクメール美術をよく理解することが大切だと思われる。

しかし、近代のクメールと言えば、私達はどうしてもクメール・ルージュを思い起こす。
1975年4月にクメール・ルージュはプノンペンを占領した。1979年1月、ベトナムの支援を受けた救国民族統一戦線によるプノンペン占領でクメール・ルージュ政権は崩壊した。
この間、クメール・ルージュは、旧政権関係者、富裕層、各種専門家および知識人などに対して大量の虐殺を行った。その政権は、当時の中国の共産党政権(文化大革命時代と一時期が重なる)によって支援された。
その意味で、クメール・ルージュや当時の中国の共産党政権は、現代アジアの共産主義を象徴する政権のひとつと考えられる。中国では、文化大革命を推進した毛沢東思想が一部では復権している。
このような共産主義がアジアの歴史の一時期のことにすぎないのか、アジア社会のどこかに根ざしたものかを考える上でも、クメール美術を味わうことは意義があるように思える。実は、それは私の研究テーマのひとつでもある。

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2015年1月5日月曜日

2015年 明けましておめでとうございます:日中和平工作の再評価、Peace Moves between Japan and China in the Inter-war Period


明けましておめでとうございます
今年も「新保博彦のブログ」をよろしくお願いいたします


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今年は1945年の終戦から70年。ひとつの大きな区切りの年だが、もうひとつ重要な意味を持っている年でもある。この年で、戦前の出版物の著作権が切れ、多くの重要な著作や資料が自由に見ることができるようになる。おそらくこの年にあわせているのだろう、「近代デジタルライブラリー」などの掲載資料が格段に増えつつあるように思える。

ところで、今日のブログではひとつの重要な課題を取り上げたい。「日中和平工作」である。1937年の盧溝橋事件以来、日本と中国は本格的な戦争の時代に入った。この時期は、本格的な戦争の時期ではあったが、同時に和平工作の時代でもあった。結果的には成功しなかったが、日中両国の多数の人々による和平への活動が幅広く行われていたことは注目に値する

日中和平工作を概観できるのは以下のWebsiteである。少し前の展示であるが、今なお外務省Websiteで閲覧できる、特別展示「日中戦争と日本外交」を紹介しておこう。展示史料解説(PDF)
I 盧溝橋事件の発生
II 全面戦争への拡大
III トラウトマン工作と「対手トセズ」声明
 「昭和12年11月上旬,広田弘毅外務大臣は,ドイツに和平斡旋を要請し,トラウトマン駐華大使を仲介とした和平交渉が行われました。しかし交渉はまとまらず,昭和13年1月16日,日本政府は「爾後国民政府ヲ対手トセズ」との声明を発表しました。」
IV 汪兆銘工作
 「「対手トセズ」声明により,蒋介石率いる重慶政権との和平交渉が事実上打ち切りとなり,日本は新たな和平交渉相手として,汪兆銘に接触しました。これに呼応した汪兆銘は重慶を離脱し,昭和15年3月には汪兆銘を首班とする南京国民政府が成立しました。しかし,日本政府は同政府の即時承認を行わず,11月30日になって,日華基本条約と日満華共同宣言に調印しました。これにより,日本は正式に南京政府を承認しました。」
しかし、これ以降も何度も和平工作は続けられる。
V 和平工作の蹉跌

日中和平工作を理解する必読の文献を以下に挙げておきたい。
1. 『日本外交文書 日中戦争』(全4冊)
以下は、日中和平工作を進めた今井武夫の資料である。
2. 今井武夫『日中和平工作 : 回想と証言1937-1947』、みすず書房、2009年。
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3. 今井貞夫著、高橋久志監修『幻の日中和平工作―軍人今井武夫の生涯』、中央公論事業出版、2007年。
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(表紙写真は、中央に蒋介石、その右後ろに今井武夫)
4. 広中一成著、今井貞夫資料提供・一部執筆『日中和平工作の記録: 今井武夫と汪兆銘・蔣介石』、彩流社、2013年。この書籍は多数の写真で構成されているので、最初に読むのに適しているかもしれない。
(表紙写真は、前列右が汪兆銘)

この今井武夫の資料が、近く「今井武夫関係文書」として国会図書館憲政資料室に寄託される予定だそうである。(上記文献4, p.9参照)

この課題に対して専門的な研究が増加するのと共に、多くの人々が注目することを期待したい。
なお、私は、この動きと軌を一にする、日中間の経済と企業活動でのCollaborationについて、以下の論文で詳しく検討している。
Japanese Companies and Investment in China during the Second Half of the Inter-war Period.
私のホーム・ページ英語版に掲載しましたのでご参照ください。

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