2013年11月23日土曜日

新しい論文:戦間期後半の対中投資、Japanese Companies and Investment in China during the Second Half of the Inter-war Period

Japanese Companies in East Asia: History and Prospectsを刊行して以来初めての論文をまとめた。Japanese Companies and Investment in China during the Second Half of the Inter-war Periodである。できるだけ海外の研究者にも読んでもらいたいと、最近は英語での刊行に力を入れているが、これもそのひとつである。
この論文を、私のHPの日本語版英語版で、参照していただけましたら幸いです。

ここでは、一般の人々向けに簡単に結論を説明したい。以下の結論の一部は、上記著作を含む、すでに刊行した私の著作のなかで検討されたものもある。

永安紡織印染公司
の資料
申新紗廠の資料
1 第1次世界大戦と第2次世界大戦の間となる戦間期には、中国では、上海などの都市を中心に市場経済が急速に成長してきた。
申新紗廠永安紡織印染公司などの優れた企業が、イギリス企業や日本企業と競争しながら、活発に活動していた。上海では、それらの企業も上場する証券市場である上海華商証券交易所が発達していた。

2 日本は1920年代以降、朝鮮、台湾、満州、中国に活発に投資してきた。日本の海外投資は以下のような特徴をもっている。
1) インフラストラクチャを中心にした、2) 新興財閥や独立企業群によって担われた、3) 主に国内の金融市場に基盤を置いていた、4) 独立性が高い企業群であった、5) 現地企業との活発な競争があった。

対中投資では、現代の直接投資と酷似している在華紡が早くから投資してきた。戦間期後半になると、国策会社である北支那開発や中支那振興による投資が中心になった。国策会社と言ってもその株式の半数は広範囲な株主が所有していた。これらの直接投資は、受け入れ国や地域の経済発展に大きく貢献してきた。

3 1937年の上海事変以来、日本と中国は全面的な戦争に突入した。しかし、そのような条件のもとでも、中国における市場経済の発展と日本の活発な対中投資は、中国と日本の間に、Collaboration (協調と協力)とAlliance (同盟と提携)の関係も生み出した。そのひとつの象徴的な組織が、全国商業統制総会である。最近になって、アメリカや日本において、Collaborationの研究が進みつつある。

4 戦間期の中国と日本の経済的な相互依存関係を理解することは、今後の日中関係がどのような方向に発展していくかについて、様々な示唆を与えていると思う。

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2013年11月21日木曜日

奈良公園の紅葉 2011.12.1-3, Colored Autumn Leaves in Nara Park

11月下旬から12月上旬頃には、奈良公園の紅葉がとても美しい。ただし、この季節には、人出も多くなるし、今年のように、晴れたと思ったらその後すぐに激しい雨など、天候が不順だとなかなか美しい写真が撮りにくい。
今年は、忙しさも相まって、今のところ一連の美しい写真が撮れていないので、とりあえず2011年12月4日のブログを改訂し、追加の写真を掲載することにした。
2013年11月21日現在、以下のようには紅葉・黄葉はまだ進んでいないようである。

東大寺ミュージアムから東へ、奈良公園の中心である奈良公園シルクロード交流館に向かって進むと、右手(南側)には真っ赤に染まった木々を見ながら歩くことになる。
(掲載している写真はクリックすると、すべて拡大されます)


そのちょうど反対側(北側)の森は、銀杏の葉とその落ち葉で、森全体が全く対照的に黄色に染まっている。






銀杏の葉に埋もれた地面を、春日大社の神の使いとされる鹿が無心に食んでいる。銀杏の葉と鹿のコントラストが何とも美しい。
向こうに見える建物は、奈良公園シルクロード交流館である。

ところで、近鉄奈良駅から東大寺に向かう途中で、紅葉が美しいので有名なのが、まず依水園である。若草山や東大寺が遠くに見える。
中には、「中国の古鏡・古印・碑帖、韓国の高麗・朝鮮時代の陶磁器、日本の江戸時代の茶陶磁類などを収蔵する」寧楽美術館がある




最後に依水園の隣にある、吉城園(よしきえん)である。意外に知られていないが、とても美しい茶室と庭がある。ここも紅葉が見事である。
「吉城園は、「興福寺古絵図」によると同寺の子院であります摩尼珠院(まにしゅいん)があったところとされています。明治に奈良晒で財を成した実業家の邸宅となり、大正8年(1919年)に現在の建物と庭園が作られました。」


最近、奈良がますます美しく賑やかになっている。JR奈良駅周辺も再開発が進んでいる。
旅館やレストランのメニューの偽装で、奈良のイメージがかなり傷ついたが、もっともっと多くの観光客が訪れてほしいと思う。

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2013年10月17日木曜日

日本の工芸:七宝、並河靖之、Shippo, Yasuyuki Namikawa

新保博彦の(YouTube)チャンネルを開設しました。「並河靖之の七宝と並河靖之七宝記念館の庭園」を掲載しています。(2023.5.7)
*****

スコット南極探検隊の映像記録を残し、
世界を旅し日本をことのほか愛し、この世の楽園と讃えた、ハーバート・G・ポンティングの『英国人写真家の見た明治日本』 は次のように述べている。

七宝焼の技術は、歴史が新しいわけではないが、その技術をこの国でも他のどこの国でも達し得なかった最高の水準にまで高めたのは、京都で現在活躍している何人かの代表的工芸家の力である。」(講談社学術文庫, p.94) という言葉で、並河靖之氏などを紹介している。


その並河靖之の作品を紹介しているのが、七宝:色と細密の世界 (INAX BOOKLET)である。この書には、並河靖之の作品を始め、多数の七宝が、大きな写真で紹介され、そのすばらしさがよくわかる。
並河靖之は、1845年、武蔵国川越藩の家臣・高岡九郎左衛門の三男として京都柳馬場御池に生まれた。1875年、京都博覧会に初めて出品し有功銅賞を得たのを皮切りに、ほぼ毎年行われる内外の博覧会に旺盛に出品し、多くの賞を得てている。帝室技芸員となった1896年前後の最盛期には、40-50人の職人をかかえていたという。(上記書、畑智子、p.16)



いくつかの代表的な作品を紹介しておこう。右は、「蝶桜文平皿」(上記書、p.17)、並河靖之の作品としては珍しい大皿であるという。

中央で乱舞する色彩豊かな一群の蝶、大皿の周辺を取り巻く満開の花々、そして皿全体を彩る深い緑の背景、それらが一体となっている。上記書に掲載されている写真は、さらに鮮明で美しい。
また、清水三年坂美術館に所蔵されているので、ぜひ現物をご覧いただきたい。




そして、並河靖之の作品を最もよく特徴づける花瓶のひとつが左の「蝶文瓢形花瓶」(上記書、p.30)である。同形の花瓶が1893年のシカゴ万国博覧会に出品され、銅牌を受賞した。
これもまた、『七宝:色と細密の世界』を見ると、その黒の輝きが一段とよく理解できる。また、描かれている蝶の多彩な色使いも見事で、黒の背景とのコントラストがとてもすばらしい。

ところで、上記書の残念なところは、並河作品のひとつの到達点となる「四季花鳥図花瓶」の詳細な写真が無いことである。それは、1900年のパリ万国博覧会のために制作されたもので、やはり黒地に桜と青紅葉が咲き誇っている。

これが宮内庁三の丸尚蔵館に所蔵されているからだろうか。宮内庁は、やや大きな画像で、黒地四季花鳥図花瓶」として紹介している。Googleの画像検索でも、すばらしい画像を紹介しているサイトは少ない。ぜひ、多くの人々が見ることができる展覧会を開催してほしいと思う。

並河靖之をはじめとする工芸家によって制作された七宝は、近代日本の重要な輸出品であった。その技術の高さは、当時の日本のものづくりの水準の高さを余すところなく示している。工芸作品に表された日本の技術は、しだいにより幅広い製造業に拡がり生かされていくことになる。これらの作品は、実は日本の近代化を考える上でも重要な作品群だと思われる。





(11月5日追記)
本日の日本経済新聞夕刊によれば、11月9日から翌年1月13日まで、京都国立近代美術館で、「皇室の名品」と題された展覧会が開かれ、「黒地四季花鳥図花瓶」(「七宝四季花鳥図花瓶」)が見られることになったことがわかった。

右の画像は、上記ウェブサイトに掲載されたものである。やや不鮮明な箇所はあるが、すばらしさの一端は見ることができる。

(2014年6月5日の追記)
三井記念美術館「超絶技巧 明治工芸の粋」で並河靖之の作品が見られる。

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2013年9月1日日曜日

イザベラ・バード『朝鮮紀行』を読む (2)、Isabella Bird Bishop, Korea And Her Neighbours

Isabella Lucy Bird from Wikipedia
イザベラ・バード『朝鮮紀行』のより詳しい書評を作成しました。
(私のHPにも掲載中、2021.04.05)

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前回(1)では、イザベラ・バードの朝鮮に対する最も基本的な認識について紹介した。今回(2)では、経済と妓生に関する記述について紹介したい。

朝鮮の政治の混乱は経済にも影響を及ぼしていた。「朝鮮馬一頭で10ポンドに相当する現金しか運べないほど貨幣の価値が低下していること、清西部ですら銀行施設があって商取り引きが簡便になっているのに、ここにはその施設がまったくないこと、概して相手を信用しない」という状況だった。(394, 太字は新保による、以下同じ)
日本の朝鮮への進出は、当然経済的な進出を伴っていた。「しかしながら日本の影響により、上質の円銀が徐々に朝鮮国内に入ってきており、前回のわたしの旅行のように大量の穴あき銭を運ばなくとも、あるいはそれが足りなくなって右往左往しなくとも、朝鮮の新貨幣はひとつも目にしたことはなかったが、日本の銀貨だけはどこの宿屋でも受け取ってくれた。」(394)

また、ソウルとともに重要な都市である平壌についてこう書いている。「平壌はきわめてゆたかできわめて不道徳な都市だった。宣教師が追い出されたことは一度ではきかず、キリスト教はかなりな敵意をもって排斥されている。つよい反対傾向がはびこり、市街に高級売春婦の妓生(gesang)や呪術師があふれ、富と醜行の都という悪名が高かった (the city was thronged with gesang, courtesans, and sorcerers and was notorious for its wealth and infamy)。」(444)
平壌はむかしから妓生の美しさと優秀さで有名である。妓生とは歌舞のできる女のことで、いろいろな点で日本の芸者に似ているが、正確にいえばその大半は政府の所属で国庫から俸給をもらっている。
 何人もの息子に恵まれても貧しくて養いきれない場合、親はそのうちひとりを政府に宦官として捧げることがあるが、娘の場合は妓生として献上するわけである。
 最も美しくて魅力的な妓生は平壌の出身であるとはいえ、妓生は全国のどこにでもいる。国王から下級官吏にいたるまで、散財する余裕のある者にとっては、妓生は宴会の客を楽しませるのに不可欠な存在と見なされている。」(449-51)

韓国からいわゆる従軍慰安婦問題が、繰り返し取り上げられている。その問題が、韓国の歴史の中でどのように位置づけられるのかについての歴史的な研究が、日韓両国でさらに深まることを期待したい。

ともあれ、イザベラ・バードは、冒頭にも紹介したように、4度も朝鮮を訪れ、朝鮮に特別に期待を持ってこの紀行を書いている。日本と朝鮮の歴史をともに理解する上で、必読書のひとつである。『イザベラ・バードの日本紀行』(、Kindle版がある)とあわせ読むと、さらに両国を良く理解できる。日本語訳で583ページもあるが、図も表紙のようにたくさんあってとても興味深く読める。

関連する私のブログ:エッカート『日本帝国の申し子』、Carter J. Eckert, Offspring of Empire

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イザベラ・バード『朝鮮紀行』を読む (1)、Isabella Bird Bishop, Korea And Her Neighbours


イザベラ・バード『朝鮮紀行』のより詳しい書評を作成しました。
(私のHPにも掲載中、2021.04.05)

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最近、韓国からの歴史認識についての主張が活発に行われている。それに対して、日本は受け身では無く、事実を持って応えることが必要である。日本からの投資については、私は何度も論じているので、ここではひとつの重要な文献を紹介したい。

近代朝鮮と日本との関係を理解するために、非常に貴重な文献が、イザベラ・バード『朝鮮紀行~英国婦人の見た李朝末期』である。バードのもうひとつの作品である、『イザベラ・バードの日本紀行』には、Kindle版があるが、前者には無い。そこで、その原書Korea and Her Neighboursとあわせて読むことをおすすめしたい。Kindle版があれば、ひとつの用語が、図書全体でどのように使われているかがよく理解できるからだ。

バードは、1894年1月から97年3月にかけて、4度にわたる朝鮮旅行を行った。その記述は実に細やかで、以下に見るように朝鮮には厳しいが、実は愛情にあふれている。

バードの朝鮮に対する基本的な認識は以下の通りである。「このように堕落しきった朝鮮の官僚制度の浄化に日本は着手したのであるが、これは困難きわまりなかった。名誉と高潔の伝統は、あったとしてももう何世紀も前に忘れられている。公正な官吏の規範は存在しない。日本が改革に着手したとき、朝鮮には階層が二つしかなかった。盗む側と盗まれる側である。そして盗む側には官界をなす膨大な数の人間が含まれる。「搾取」と着服は上層部から下級官吏にいたるまで全体を通じての習わしであり、どの職位も売買の対象となっていた。」(344、太字は新保による、以下同じ)

このような状況で、日本が採った対応についてこう述べている。「わたしは日本が徹頭徹尾誠意をもって奮闘したと信じる。経験が未熟で、往々にして荒っぽく、臨機応変の才に欠けたため買わなくともいい反感を買ってしまったとはいえ、日本には朝鮮を隷属させる意図はさらさらなく、朝鮮の保護者としての、自立の保証人としての役割を果たそうとしたのだと信じる。」(564-5)

そして、日本の朝鮮進出について、外国はどう考えていたか。「王妃暗殺からほぼ一か月後、王妃脱出の希望もついえたころ、新内閣による政治では諸般の状況があまりに深刻なため、各国公使たちは井上伯に、訓練隊を武装解除し、朝鮮独自の軍隊に国王の信頼を得るに足るだけのカがつくまで日本軍が王宮を占拠するよう勧めて、事態を収拾しようと試みた。日本政府がいかに列強外交代表者から非難を受けていなかったかが、この提案からわかろうというものである。」(364)

このような状況のなかで、首都のソウルは次の通りだったという。「とはいえ、ソウルには芸術品はまったくなく、古代の遺物はわずかしかないし、公園もなければ、コドゥンというまれな例外をのぞいて、見るべき催し物も劇場もない。他の都会ならある魅力がソウルにはことごとく欠けている。古い都ではあるものの、旧跡も図書館も文献もなく、宗教にはおよそ無関心だったため寺院もないし、いまだに迷信が影響力をふるっているため墓地もない!」(85)

バードの視線は、さまざまな面に及んでいる。(2)では、経済と妓生についての記述を紹介したい。

関連する私のブログ:エッカート『日本帝国の申し子』、Carter J. Eckert, Offspring of Empire

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2013年8月27日火曜日

天国に最も近い島、ニューカレドニア、Nouvelle-Calédonie and L'Ile des Pin

今年の夏休み、たまたまニューカレドニア(Nouvelle-Calédonie)に行くことができた。天国に最も近い島と呼ばれているこの島に行けたことは、定年前の私にとっては偶然ではないのかもしれない。

そのあまりにも美しい島々の写真を撮ろうとしたが、結果的には満足いく写真がそれほど無かった。あまりにも強烈な光をうまくコントロールできなかったからだろうか。
そこで、現地で購入した、L'Ile des Pin - Kunié et ses horizonsÉditions Pétroglyphes, 2007を紹介してみたい。この本はAmazonでは販売していないので、現地で買うか、出版社に直接に問い合わせしないといけないのかもしれない。貴重な作品なのに、本当にもったいない。

今回の旅行の最初は首都のヌーメアに着くところから始まった。泊まったホテルが持つ海岸も広く遠浅で、数十メートル沖まで歩いて行くことができるほどだった。もちろん、さまざまな海のアクティビティがとても盛んである。

今回の旅行の最大のイベントは、上記の書籍の名前にある、イル・デ・パン(L'île des Pins (Kunié en langue kanak))に行くことだった。ヌーメアから国内線で25分、比較的近いが、便が多くないので、移動には時間がかかる。
まず着いたのは、島の南西部クト・ビーチである。写真(同書、p.14-5)の通り、真っ白な砂浜が延々と続き、海は透明で深く青い。
ビーチの中心にあるホテル・クブニーから海岸を歩き始めたが、写真の向こうにある海岸に着くには相当の時間がかかる。

クト・ビーチのちょうど反対側、島の北東部にあるのが、オロ湾である。(同書、p.44-5)である。この写真は、そこで天然のプールと呼ばれている場所である。
ここに行くには途中で車を降り、このプールから流れ出ている美しい川を遡って行くことになる。
クト・ビーチよりさらに水の色が濃く澄み切っている。
この近くにはホテルもあるが、この美しい自然は保たれている。イル・デ・パンには、これら以外にも美しい場所はたくさんある。

ところで、ニューカレドニアは、フランスでも特殊な地方行政区画「特別共同体 (a collectivité sui generis)」である。民族の構成は、メラネシア人が42.5パーセント、フランス人を中心とするヨーロッパ人が37.1パーセントである。(以上は、Wikipedia)2つの民族が、ほぼ同じ割合となっているため、微妙な均衡が保たれているように見える。ヌーメアでもメラネシア文化とフランス文化が共存していて、ガイドブックが言うように、プチ・パリの雰囲気が漂う場所がいくつもある。
自然の美しさとともに、この土地の文化の独特さがとても興味深い。日本人がもっともっと訪れて欲しいと思う。ニューカレドニアの基本情報は、観光局から入手できる。

ところで、最後に全く私事なのだが、このツアーの帰り道、クレジット・カードや現金などの重要なものを入れていたリュックサックを近鉄電車内に置き忘れてしまった。気がついてすぐ近鉄に問い合わせたが、そのままの形ですぐに見つかった。届けていただいた方は名前も告げずに去られたという。届けていただいた方に、この場を借りて心からお礼を申し上げます。
また、このような安全な国で生活していることが、改めて本当に誇らしく思った。

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2013年7月16日火曜日

戦前の日本企業の海外投資の実態:4つのデータ・ベースを使ってみよう

日本企業のグローバル化の必要性が、日本市場の縮小と飽和という条件のもとで、ますます強く叫ばれている。グローバル化を進めるためには、過去の経験を学び直すことが必要になっている。
また、これまで長い間、戦前の日本と日本企業のアジア経済発展への貢献に対する不当な批判ばかりが先行していたが、具体的な貢献がいかに大きく多様であったを見直す動きも強まっている。


戦前の日本経済と日本企業について詳しく検討するためには、まず、以前のブログでも書いたように、企業史料統合データベースを使うのが最も基礎的な方法である。このデータベースを見れば、日本企業の情報公開がいかに進んでいるか、また、投資家がいかに広範に存在したかもよくわかる。

このデータベース以外の重要なデータベースには、以下の国会図書館デジタル化資料、アジア歴史資料センター、神戸大学附属図書館デジタルアーカイブなどがある。順に説明してみたい。

まず、国会図書館デジタル化資料である。国立国会図書館で収集・集積されているさまざまなデジタル化資料を検索・閲覧できるサービスである。ダウンロードには少し時間がかかるが貴重な資料が完全版で見られる。ひとつ例を示しておきたい。北支那開発株式会社及関係会社概要. 昭和15年度である。北支那開発は、中国に進出した国策持株会社(株式の半分は国が持ち、後半分は多くの投資家が所有する)であるが、傘下に多くの子会社を持ち、北部中国の経済発展に貢献した。


次に、アジア歴史資料センターである。アジア歴史資料センターは、インターネットを通じて、国の機関が保管するアジア歴史資料(原資料=オリジナル資料)を、パソコン画面上で提供する電子資料センターであり、国立公文書館において運営されている。国会図書館デジタル化資料よりも多様な資料を公開している。資料のダウンロードができるが、2つの形式とも見やすいとは言えず、改善が期待される。ひとつ例を示しておこう。三菱商事株式会社業務部東亜課が作成した、中支那に於ける全国商業統制総会に関する件である。この資料から、1940年代に占領地上海で成立した、日本と中国上海の資本家との広範囲な協力が進んでいたことがよくわかる。この協力は、広く注目されていて、Collaborationと呼ばれている。

最後に、神戸大学附属図書館デジタルアーカイブ 新聞記事文庫である。これは、神戸大学経済経営研究所によって作成された明治末から昭和45年までの新聞切抜資料で、「新聞切抜文庫」とも呼ばれている。60年以上にわたって営々と積み上げられた切抜帳は約3200冊、記事数にすれば約50万件という膨大な量になっている。主要な新聞社のデータベースもあるが、この文庫は、画像ではなくて、データ化しているためとても使いやすい。

これらのデータ・ベースが多くの人に積極的に活用されて、戦前の日本と日本企業の実態に触れて欲しいと思う。

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2013年5月23日木曜日

青もみじの季節、瑠璃光院と蓮華寺、Japanese Green Maple, Rurikouin, Rengeji

今、青もみじの季節だという。以前から青もみじはこれほどまでに注目されていたのだろうか。
青もみじとは、「赤く色づく前のカエデ」。
と言うことで、特別拝観中の瑠璃光院と蓮華寺に行ってみた。
左の写真は瑠璃光院の入口、門から青もみじがさっそく出迎えてくれた。八瀬比叡山口から歩いてすぐである。京阪電鉄、叡山電鉄がパンフレットを出しているので、多くの観光客が訪れている。

門をくぐって建物に着くまで、一面の青もみじである。
この季節は、とても清々しい風が吹く最も過ごしやすい季節のひとつである。やや高くなっている丘から吹き下ろしてくる風に吹かれながら、建物に入った。
とても丁寧なご挨拶をいただき、期待に胸を膨らませながら門をくぐった。


建物の中からは八瀬が一望できる。
左の写真は本ブログの5月の背景に使っている。青もみじともに、ほのかなピンク色の花が咲き乱れているのが何とも対照的で美しい。





帰途、空を見上げてみた、一面青もみじ、改めて青もみじに埋め尽くされていることがわかる。
ここしばらくずっと晴れた日が続いているが、雨が降れば緑がいちだんと映えるだろうなと思う。雨は、木々をさらに美しくする。

**********

最後の1枚は、瑠璃光院がある八瀬比叡山口のひとつ手前の駅、三宅八幡から歩いて行ける蓮華寺の庭である。同じく青もみじが美しいお寺である。
こちらは宣伝が少ないせいか、観光客もやや少なく、建物内はとても静かで、じっと座って庭を鑑賞できる。訪れている観光客もとてもマナーのいい人ばかり、このような場所に来るとほっとする。
京都の主要なガイドブックには、残念なことに、これらのお寺の解説は無い。でも京都の代表的なお寺にけっして負けない美しさがある。
おそらく、多くの人の地道な努力がこうした美しさを作ったのだろう。
秋には、ぜひとも真っ赤に染まったお寺を見てみたい。



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2013年3月31日日曜日

奈良公園の桜、改訂版、Cherry blossoms in Nara Park

「奈良公園の桜」(2012年4月11日水曜日)は、意外にも今でも見ていただいている。たぶんタイトルのせいだろう。そこで、そのページに写真をいくつかを追加し、写真のデータサイズを大きくして再構成した。したがって、写真は、2012年の、小雨が降っているある春の日である。
この場所は、秋には紅葉がとても美しく、何度来ても飽きない。また、東大寺から少し隔たっているので、観光客も意外に少ない。

背景は、若草山である。左側からずーっと伸びている桜と若草山がコントラストをなしている。
私のブログの春編の背景にしている。





この日はちょうど小雨、そのために観光客が少なかった。これがさまざまな写真が撮れた理由だろう。
雨によって桜が一面に落下し、辺りが桜で埋め尽くされていた。




雨で、桜と木々の緑がともにその色を競いあい、何とも言えず美しかった。








2つめ写真の場所とほぼ同じ位置だが、一本の桜が見事にこちらに向いて咲き誇っている。








最後に、右側の石塀で奈良らしい風景となっている。桜が石塀に向かって大きく伸びている。左手奧が東大寺である。








奈良への観光客が最近目立って増えている。京都に比べれば見所が比較的少なく、知名度も低い。しかし、有名な場所を少し離れても、このような美しい自然が多く有るので、古い仏像と出会うだけではなく、是非とも訪れて欲しい場所だと思う。

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2013年3月28日木曜日

新石垣空港完成:八重山諸島への旅, Yaeyama Islands

2013年3月7日に「南ぬ島(ぱいぬしま)石垣空港」が完成した。関西空港から直行便で往路は3時間弱、復路は2時間20分で行けるようになった。この機会にと言うことで、初めての八重山諸島巡りに出かけた。
八重山諸島最大の島は西表島で沖縄県では沖縄本島に次ぐ。ほぼ同じ面積の石垣島は人口が約5万人、これに対して西表島は人口が2,000人。
 石垣島からまず西表島に移動して、まずはうっそうとしたマングローブ林と珊瑚の海を巡った。この日の天候は悪かったため、鮮やかさが今ひとつで、TOPの写真としては少し残念ではある。


左の写真は、マングローブ林の砂地からのぞいた小さな蟹、そして廻りには蟹が吹き出した砂の山。蟹はなかなか見つからないが、蟹が掘り起こした砂の山は辺り一面に見られる。蟹の活動量は驚くばかりだ。






右は、西表島で夕日が落ちる直前の写真。波の音を聞きながら、波の向こうに落ちていく夕日を見ているのは、なんと贅沢な瞬間なのだろうか。少し雲がかかっていたのは残念。








次の日は、石垣島に戻って、島最大の見所のひとつ、川平湾に向かった。曇っていた西表島と打って変わって晴れたので、海は右の写真のようだった。グラス・ボートで海を見ることができるが、グラス越しで見るので、写真の写りは良くなかった。




石垣島では小さなテーマパーク石垣やいま村にも立ち寄った。そこにあるマングローブ林が右の写真。天候の違いで最初の写真と比べて、緑が際立っている。







八重山諸島の役割はますます高まっている。それは、尖閣列島を防衛する戦略的な位置にある。海上保安庁の船舶の停泊地にもなっている。海洋国家日本を象徴する島でもある。
また、特に亜熱帯の自然が色濃く残っている西表島は独特の生態系の保護をめざしている。
そして、やはりこれらの島の高齢化、若者の都会への流出があり、他の離島と同じ問題を抱えている。新空港の開港によって多くの人が訪れ、八重山諸島の大切さがもっと認識されて欲しいと思う。

参考:Exploring Okinawa’s Yaeyama Islands, By Chris Willson

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2013年2月21日木曜日

特別展『ボストン美術館 日本美術の至宝』が、ようやく大阪にやってくる, Japanese Masterpieces from the Museum of Fine Arts, Boston

特別展『ボストン美術館 日本美術の至宝』が、4月2日に大阪にやってくる。今は九州国立博物館で行われている。非常に多数の作品を含む展覧会だが、私は、曾我蕭白の作品が見られるのを楽しみにしている。
江戸時代と言えば浮世絵、そして最近では伊藤若冲が特に人気である。私もその一部について注目してきた。
ところが、曾我蕭白は、それらとはまた別の独自の絵画世界を切り開いた。
左の図は、雲龍図で、長年、日本美術の収集で有名なボストン美術館で修復作業が続けられてきたが、今回世界初公開となる。「龍は神獣・霊獣であり、麒麟・鳳凰・霊亀とともに四霊のひとつとして扱われる」と言われる。しかし、蕭白の龍はそのような威厳はなく、とても人間的な表情をしている。画面一杯に広がった龍の顔は、何とも言えない愛嬌とひょうきんさがあり、我々のある感情を表しているように見える。
画は墨絵であるが、独特な深い黒をはじめさまざまな素材からなる黒色が使われていて、その漆黒さが今なお褪せておらず輝いている。

一方で、蕭白の画には、極彩色の画がある。そのひとつが右の雪山童子図(『もっと知りたい曽我蕭白』, p.59)である。雲龍図の黒のように、青・赤が鮮烈である。女性にしか見えない釈迦、外観は恐ろしいが腰を抜かした弱々しい青鬼。何とも奇妙な世界が見える。

江戸時代は、実に多様な芸術家が、自由に創造力を開花させた時代である。このような芸術家達が、後生の近代社会では、技術家として育っていったのかもしれない。
江戸時代は、暗黒の停滞した時代と捉えたマルクス歴史学の説明とは全く異なった世界だった。そして、そのような時代があったから、明治時代に近代化が一気に進むことができたのだろう。

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