2012年3月27日火曜日

日本国際経済学会について


しばらく専門外の記事が中心だったので、少し私の専門に立ち戻ってみたい。

今年の5月に日本国際経済学会第2回春季大会が、10月に日本国際経済学会第71回全国大会が開かれる。
日本国際経済学会は、1950年に創立総会が開かれた、長い歴史と伝統のある学会である。
設立当初の時代は、日本の学会は、いわゆる近代経済学とマルクス経済学に分かれて設立されることが多かった。両者の立場も大きく異なっていた。しかし、日本国際経済学会は、設立当初から両方の立場の研究者が参加し、活発な議論が繰り広げられてきた。
その伝統は今も生きている。例えば、TPPに賛成する研究者も、反対する研究者も参加し、興味深い議論が展開されている。それが、この学会の強みとなっている。
各全国大会や各支部の研究会の、ほぼすべての報告のレジュメ、論文、PowerPointが掲載されているので、ぜひ参照していただきたい。私は、昨年までの約10年間、学会ホームページ(本部版と関西支部版)の作成を担当し、情報の広範囲な開示に努力してきた。なお、今年10月の全国大会のホーム・ページの作成は、私が担当している。
ところで、ギリシャやイタリアでは、金融危機の深刻化にともなって、意見の調整が困難な政党に代わって、研究者が政治の要職に就くという例が出てきた。日本でも、TPPや消費増税をめぐって、政党の議論は混迷を深めている。責任を持って政策を推進する政党が出てくることを期待したいが、ポピュリズム万能の時代には難しいかもしれない。その意味でも学会の役割は非常に大きくなっている。
これからは、学会が、現実的な政策に議論の中心を置くだけではなく、メンバー以外の人々の参加を容易にするような運営が必要だと思う。

3月28日の補足
今日、マリオ・モンティイタリア首相の特別講演会が開かれた。非常に興味深い、日本にとっても重要な内容だった。
講演会のホーム・ページUstreamでの講演内容新聞記事

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2012年3月4日日曜日

「『特攻―空母バンカーヒルと二人のカミカゼ』(M.T.ケネディ著)より」、Maxwell Taylor Kennedy

You Tubeはさまざまな偶然の出会いをもたらしてくれる。
エレーヌ・グリモーの、heleneGrimaudTVもそうだったが、また新たな出会いがあった。『特攻―空母バンカーヒルと二人のカミカゼ』(M.T.ケネディ著)よりである。Maxwell Taylor Kennedyによる"Danger's Hour" (2008)の翻訳を紹介した動画である。

著者は、「本書は、一九四五年五月一一日、神風特攻隊の攻撃によって甚大な被害を受けたアメリカ海軍の航空母艦バンカーヒルの艦上で起きた出来事を描いたものである。」(プロローグ、p.11)
「日本軍の上層部が敗北を充分に認識した上で大勢の若者を神風特攻隊に任命したのは、絶望的な大義のために命を捧げた若者たちの倫理規範が、以後何千、何万年と、人々の自己犠牲精神をかき立て続けるであろうと考えてのことだった。彼らの最後の望みは、未来の日本人が特攻隊の精神を受け継いで、強い心を持ち、苦難に耐えてくれることだった。
現代を生きる私たちは、神風特攻隊という存在をただ理解できないと拒否するのではなく、人の心を強く引きつけ、尊ばれるような側面もあったということを理解しようと努めるべきではないだろうか。」(同、p.24)
第2次世界大戦が終了して70年近く経ち、ようやく戦争に対する客観的な評価が増加しつつある。アメリカを民主主義陣営の盟主とし、日本を独裁国家の代表とするという図式が確実に見直されている。あらゆる分野で、少しずつそのような作業が行われている。この著作も、そのような作品の一つである。ぜひとも多くの人に読んで欲しい本だと思う。
もちろん、著者の見解の一部には、日本へのよく見られる偏見が残っている。「日本人は個の生命は根本的に限られたものである・・・」(同、p.15)しかし、同時に著者は、「しかし、はっきりしているのは、神風特攻隊員のほとんどは、天皇のためなら喜んで死ぬという狂信者ではなかったということだ。」(同、p.19)とも言っている。

ところで、私は、自分自身の研究領域で、戦前の日本のコーポレート・ガバナンスがアメリカのコーポレート・ガバナンスと同様、市場中心型であると説明してきた。(『日米コーポレート・ガバナンスの歴史的展開』(2006))戦後長く日本を支配してきた、戦前日本の経済・企業は財閥中心であるという議論を具体的な資料を駆使して批判し、上記のような主張を展開した。
事実は、日本の市場経済と企業、そして民主主義がしだいに発展し、アメリカに脅威となったために、当時の条件の下では、戦争が不可避になったということである。